新唐書卷二百三 列傳第一百二十八 呉武陵

呉元濟への諫書

  • 信州の人。元和初、進士及第。淮西の呉少陽が才を聞いて招こうとしたが応じなかった。少陽の子元濟の反乱に際し、自ら「東呉王孫」と称して長文の諫書を送り、勢いに乗じた反逆の不利(智・仁・孝・明のいずれの点でも道理に反すること)、周辺諸鎮の軍事的孤立、憲宗の英明さと寛仁を説いて降伏を勧めた(本文に全文引用)。元濟は聞き入れなかった。
  • 裴度の淮西討伐に韓愈が司馬として従軍した際、宦官監軍の人選や賞賜による士気鼓舞の策を進言したが採用されなかった。天文の吉兆を読んで西北の官軍の勝利と敵将の内紛を予言する逸話も伝わる。
  • 長慶初、竇易直の推挙で塩の管理を担当したが冷遇された。和糴貯備使の設置に反対する諫言(辺境の窮乏と制度の頻繁な変更を批判)を行ったが聞かれなかった。
  • 大和初、太学博士として杜牧の『阿房宮賦』を礼部侍郎崔郾に強く推薦し、及第させた逸話が伝わる。韶州刺史を経て贓罪で潘州司戶参軍に貶され没した。
  • 柳宗元とは永州で同じ境遇にあり親交を結び、後に柳州刺史の柳宗元の後任人事について裴度に武人起用を進言、孟簡への書簡でも柳宗元の不遇を訴えたが、実現前に柳宗元は没した。李愬にも人材(李景儉・王湘)を推薦し知人と称された。