含元殿賦の文名
- 字は遐叔、趙州贊皇の人。曾祖の太沖は「太沖に兄なし」と称されるほど宗族随一とされ、太宗朝で祠部郎中。
- 曠達に見えながら内は謹重、汲黯を範とした。進士・宏辭科に連中。天寶十一載、監察御史として楊国忠の縁者の横暴を弾劾し州県を粛正したが、権幸に憎まれ右補闕に転じた。安禄山の乱に際し討伐・防備の策を上奏したがいずれも用いられなかった。
- 玄宗の蜀行幸時、鄴にいた母を連れて逃げようとしたが賊に捕らわれ、偽の鳳閣舍人職を受けた。乱平定後、杭州司戶参軍に貶され、節を全うできず親も安んじられなかった自責から江南に隠棲した。上元中、左補闕・司封員外郎に召されたが「節を毀し親を危うくしてまで天子の寵を得ようか」と固辞した。江南観察使李峴の幕府に召され検校吏部員外郎となったが、風痺のため辞職し山陽に隠棲、子弟に農耕を教えた。晩年は仏法に帰依し、著述より墓碑銘の依頼に応じることが多かった。大暦初に没した。
- 『含元殿賦』を蕭穎士に示した際「『景福殿賦』の上、『霊光殿賦』の下」と評された。李華の文は綺麗だが穎士ほどの気迫はないとされたが、李華自身は自負していた。『弔古戦場文』を故意に古書に見せかけて穎士に読ませ「今、誰が及ぶか」と問うたところ「もう少し精思すれば君自身が到達できる」と答えられ、李華は驚き服したという逸話が伝わる。
- 独孤及・韓雲卿・韓会・李紓・柳識・崔祐甫・皇甫冉・謝良弼・朱巨川ら多くの後進を見出し重用に導いた。元德秀・権皋の銘、『四皓贊』などの文で称賛された。
子 翰
- 進士及第、衛尉。天寶末、房琯・韋陟の推挙にもかかわらず宰相の反対で史官になれなかった。友人の張巡が睢陽で節を守り死んだ事績を降賊と誤解されたのを憂い、粛宗に長文の上表を献じて張巡の功績(睢陽死守で江淮を守った戦略的意義)と、食人という非常事態の必然性を弁護し、江淮戸口からの遺族支援と塚の建立を求めた(本文に長文引用)。この上表により張巡の名誉が回復した。
- 左補闕・翰林学士に累遷。大暦中、病により免官、陽翟に客居して没した。文章は精密だが遅筆で、皇甫曾に音楽を求め着想を得てから書いたという。族弟の李紓には別伝がある。
従子 觀
- 字は元賓。貞元中、進士・宏辭に連中し太子校書郎。享年29で没した。文章は前人を踏襲しない独創性で韓愈と並び評され、觀の早世後は愈の文がますます精進したため最終的に愈が名を独占したとされる。陸希聲は「觀は辞を尚び辞が理に勝り、愈は質を尚び理が辞に勝る」と評した。