新唐書卷二百一 列傳第一百二十六 杜審言

才気と孝子の逸話

  • 字は必簡、襄州襄陽の人、晋の征南将軍杜預の遠裔。進士及第、隰城尉。傲慢な性格で「蘇味道は我が判文を見て恥死するだろう」「我が文章は屈原・宋玉を衙官とし、我が筆は王羲之を北面させるべき」と豪語した逸話が伝わる。
  • 洛陽丞に進んだが坐事で吉州司戶参軍に貶され、司馬周季重・司戶郭若訥に構陥され投獄、殺されかけた。子の並は13歳で刃を懐に季重を刺し、左右に殺された。季重は死に際「審言に孝子ありとは知らなかった」と述懐したという。審言は免官されて東都に還った。蘇頲は並の孝烈を悼んで墓誌を書き、劉允濟が祭文を捧げた。
  • 後に武后に召され『歓喜詩』を賦し、著作佐郎・膳部員外郎。神龍初、張易之への連座で峰州に流されたが、国子監主簿・修文館直学士として召還され没した。李嶠らの奏請で著作郎を追贈された。
  • 病篤い際、宋之問・武平一の見舞いに「造化の小児に苦しめられたが、死んでも代わりの才を見られぬのが恨みだ」と答えた逸話が伝わる。李嶠・崔融・蘇味道と並び「文章四友」と称され、崔融の死には緦の喪服で応じた。

従祖兄 易簡

  • 九歳で文をなし博学、岑文本に重んじられた。進士及第、渭南尉。吏部尚書李敬玄への非礼を咎められ考功員外郎に貶され、侍郎裴行儉との対立から敬玄を弾劾したが、逆に「軽薄な襄陽児」と評され開州司馬に左遷された。

孫 甫(杜甫)

  • 審言の孫、字は子美。若くして貧しく呉越・斉趙を遊歴、李邕に才を認められた。進士に落第し長安で困窮。
  • 天寶十三載、玄宗の太清宮親祭に際し三賦を奏上して認められ、集賢院待制、河西尉を辞して右衛率府冑曹参軍。祖父審言以来十一代の儒官の家系と自らの窮乏を訴える上書を献じた。
  • 安禄山の乱で蜀に逃れる玄宗を追えず三川に避難。粛宗即位後、鄜州から行在を目指す途上で賊に捕らわれたが、至德二年に鳳翔に脱出し右拾遺を拝命。房琯が陳濤斜の敗戦と客の董廷蘭の罪で罷相された際、「罪は些細、大臣を軽々に免ずべきでない」と上疏して帝の怒りを買い、宰相張鎬の弁護で赦された。
  • 家族が鄜州で困窮し餓死者も出た。華州司功参軍として出仕したが饑饉で辞し、秦州で薪を採って自活、剣南に流浪し成都西郭に草堂を結んだ。厳武の幕下で参謀・検校工部員外郎となったが、酔って厳武の寝台に登り「厳挺之にこんな息子がいたとは」と放言し危うく殺されかけた逸話も伝わる。厳武没後は梓州・夔州を往来した。
  • 大暦中、瞿唐峡を出て江陵に下り、沅水・湘水を遡り衡山に登り耒陽に寓した。洪水に遭い旬日食に窮したが県令の助けで生還、贈られた牛肉と酒で大酔し急死した、享年59。
  • 天下大事を好んで論じたが実務には疎く、李白と並び「李杜」と称された。時に寇乱に遭いながら節を汚さず、時事を憂い詩を作り、「詩史」と称された。

杜甫贊

  • 唐の詩は陳・隋の浮靡な風を継ぎ、宋之問・沈佺期らが声律を研磨して「律詩」を確立した。開元間には雅正を重んじる風となったが、それぞれ一長一短があった。杜甫に至って古今の様式を渾然と併せ持ち、他の追随を許さなかった。元稹は「詩人以来、子美に及ぶ者なし」と評し、時事を詠じた律詩は千言に及んでも衰えず「詩史」と称された。韓愈も「李白・杜甫の文章は光焔万丈」と絶賛した。