新唐書卷二百一 列傳第一百二十六 王勃

出自と早熟の才

  • 字は子安、絳州龍門の人。六歳で文をなし、九歳で顔師古注『漢書』を読み『指瑕』でその誤りを指摘した。麟徳初、劉祥道への上書で対策高第となり、朝散郎に叙され、沛王府修撰として『平臺秘略』を編んだ。諸王の闘鶏を戯文にした『檄英王雞文』が高祖の怒りを買い府を追われた。
  • 剣南に客居した後、虢州参軍に補されたが、罪を犯した官奴曹達を匿い、発覚を恐れて殺害する事件を起こし死罪となったが赦免された。父福畤は連座して交阯令に左遷され、王勃は父を訪ねる途上、南海で溺死した。享年29。
  • 滕王閣序の逸話:南昌滕王閣での宴で都督が婿の作を披露しようとしたところ、王勃が臆せず筆を執り「天才なり」と絶賛された。文章は事前に精思せず、大量の墨を磨って泥酔し目覚めてから一気に書き上げる「腹稿」と呼ばれる作風だったという。
  • 祖父の王通が隋末に白牛渓で教授した業を継ぎ、漢魏晋の史を続書として整理し『尚書』後継の書を完成させた。『易』にも通じ『易発揮』を著したが病で中断。五行に基づく王朝交代説を唱え『唐家千歳暦』を著した。
  • この五行説が後に崔昌の『五行応運暦』(周・漢を二王後とし周・隋を廃する説)の元となり、天寶年間に李林甫の後押しで玄宗が採用、周・漢の廟を建てるに至った。楊国忠が右相となると魏を三恪とする旧説に戻され、崔昌・衛包・閻伯璵は左遷された。
  • 王勃の兄勮、弟助もともに進士に及第した。

兄 勮

  • 長寿中、鳳閣舍人。壽春等五王の出閣儀礼で冊文の作成漏れが発覚した際、五人の吏に分担して即座に作成させ人々を感嘆させた。弘文館学士兼天官侍郎。裴行儉が選挙の際「勮と蘇味道は銓衡の才」と評した通りとなった。劉思禮の謀反に連座し、兄涇州刺史勔・弟助とともに誅された。神龍初、官が復された。

弟 助

  • 字は子功。七歳で母を喪い哀号し、父の喪では骨立するまで痩せた。監察御史裏行。
  • 兄弟の勔・勮・勃は「三珠樹」と称され、後には助・劼も文で名を上げた(劼は早世)。福畤の末子勸も文才があった。父福畤が友人韓思彦に自慢した際、「馬癖・誉児癖など王家には癖が多い」と冗談を言われた逸話も伝わる。
  • 王勃は楊炯・盧照鄰・駱賓王と並び「王楊盧駱」の四傑と称された。楊炯は「盧に劣るのは恥じ、王の後にあるのは恥」と語った。

附 楊炯

  • 華陰の人。神童挙、校書郎。永隆二年、皇太子釈奠に伴い薛元超の推挙で崇文館学士。詹事司直に遷ったが、従弟神譲が徐敬業の乱に連座し梓州司法参軍に左遷。盈川令として厳酷な政治で知られ、部下を殴殺する事件もあった。任地で没し、中宗朝に著作郎を追贈された。

附 盧照鄰

  • 字は昇之、范陽の人。曹憲・王義方に師事。鄧王府典簽として「わが相如」と愛された。新都尉を病で辞し太白山に隠棲、方士の丹薬服用が悪化を招いた。東龍門山で貧しく暮らし、裴瑾之・韋方質・範履冰らの援助を受けたが手足が不自由になり、具茨山下に隠棲して自ら墓を用意した。高宗時代は吏、武后時代は儒であった己を「独り時流に合わぬ」と嘆く『五悲文』を著し、最後は潁水に身を投げて自殺した。

附 駱賓王

  • 義烏の人。七歳で詩を賦した。道王府属、武功主簿を経て、裴行儉に用いられず長安主簿。武后期にしばしば上疏。臨海丞に左遷され不遇のうちに官を棄てた。徐敬業の乱に加わり、武后の罪を糾弾する檄文を書いた。武后は読んで嗤ったが「一抔の土いまだ乾かず、六尺の孤いずこにありや」の句に至り驚き「誰が書いたか」と問うたという。敗死後は行方知れずとなり、中宗即位後に遺文が捜索された。
  • 崔融・張説の評(王勃の文は宏放で炯・照鄰も及ばぬとする説、張説は楊炯を推す反論)、開元中の張説と徐堅の文人品評(李嶠・崔融・薛稷・宋之問、富嘉謨、閻朝隱、韓休、許景先、張九齢、王翰らの評)も記される。