文藝上・序
- 唐三百年の文章は大きく三変した。高祖・太宗期は江南の余風を引く華麗な句作で、王勃・楊炯がその代表。玄宗期は雕琢を厭い理致を求める気風となり、燕国公張説・許国公蘇頲がこれを主導。大暦・貞元期には韓愈が唱え柳宗元・李翱・皇甫湜が和して百家を排し、法度厳密な文が完成した。李嶠・宋之問・沈佺期・王維の応酬詩、常袞・楊炎・陸贄・権徳輿・王仲舒・李徳裕の制冊文、杜甫・李白・元稹・白居易・劉禹錫の詩、李賀・杜牧・李商隠の奇怪な作風など、それぞれ一世の冠と称された。
- 孔子門下でも文学は下位の科であった。中人以下では文才によって身を誤る者、奸を飾る者、国を怨む者もいる。ここでは文をもって自ら名のった者を『文藝篇』として収める。韋応物・沈亜之・閻防・祖詠・薛能・鄭谷らその他多数の文人は事跡が失われ割愛する。
出自と経歴
- 先祖は雍州長安の人。父の樞は陳の尚書左僕射。朗は陳で秘書郎、江総に重んじられ、後主の求めに応じ『月賦』『芝草』『嘉蓮』の頌を作り絶賛された。太子洗馬・徳教殿学士を歴任し、陳滅亡後は隋に仕え尚書儀曹郎となった。
- 武徳初、隠太子・秦王・斉王がそれぞれ名臣を集めて勢力を競った際、袁朗は隠太子府の文学に列した(李綱・竇軌・裴矩・鄭善果・賀德仁・魏徴・王珪・欧陽詢ら多数の名がここに列挙される。秦王府には房玄齢・虞世南・杜如晦・褚遂良・戴冑ら、斉王府には榮九思・武士逸らがいた)。累封汝南県男、給事中。没後、太宗は廃朝一日、高士廉に「朗は任浅く性謹厚であった」と惜しんだ。
- 遠祖は漢の司徒袁滂。朗まで十二世、うち四世が司徒・司空を輩出し、淑・顗・察は宋の内乱で死し、昂は斉・梁で節を著した。朗は自らの家系を海内随一と誇り、琅邪王氏さえ軽んじたという。
孫 誼
- 朗の孫誼、神功中に蘇州刺史。侍中文瓘の子張沛の「隴西李亶は天下の甲門」との言に対し、「家柄とは歴世の名節にある。危を見て命を受けるのが真の門地だ」と反論し沛を大いに恥じ入らせた。
従父弟 承序
- 承序は斉王元吉府の学士、府廃後に建昌令。慈簡な政治で吏民に慕われた。晋王(高宗)の友・侍読に召され弘文館学士を加え、没した。
従祖弟 利貞
- 陳の中書令敬の孫、高宗朝で太常博士・周王侍讀。周王立太子の礼で命婦合宴に九部伎・散楽を用いる案に対し、命婦の宴会場所を別殿とすべきと諫言し容れられた。祠部員外郎で没し、中宗立後に秘書少監を追贈された。