魏典の撰述
- もと後魏常山王素蓮の末裔。孤児として外祖父の司農卿韋機に養われた。博学で故訓に通じ、進士に及第、通事舎人に累遷。狄仁傑に重用され、「自分は君の薬籠中の物」と評された逸話が伝わる。
- 景雲中、太常少卿。拓跋氏の系譜出自ながら編年史を欠くことを惜しみ、『魏典』三十篇を撰した。魏明帝代の牛継馬石符伝説を昭成皇帝に当てる考証や、破損古墓から出た円い銅器を「阮咸(琵琶の一種)」と鑑定し、後に楽家がこれを「阮咸」と呼ぶようになった逸話も記される。
類礼編纂と釈疑
- 開元初、太子詹事を辞して岐州刺史・関内按察使、のち右散騎常侍・東都副留守。嗣彭王の子誌謙が誣告された事件で冤罪を見抜き奏上した。大理卿を経て左散騎常侍・常山県公。馬懐素・褚無量の後を継いで書誌校訂事業を統括し、玄宗の『孝経』自注に疏を作成した。
- 魏光乗の建議で魏徴『類礼』を経典に列しようとし、行沖は範行恭・施敬本らと五十篇に整理して上呈したが、右丞相張説の反対で採用されなかった。行沖は諸儒に疑われたとして『釈疑』を著し、鄭玄注と魏徴の刊訂本の優劣を問答形式で論じ、章句墨守の弊を批判した。
- 開元十七年、致仕を願い出て没した。77歳、礼部尚書を追贈、諡は献。