四太子廟と礼制論争
- 潁川の人。開元初、右拾遺。隠太子・章懐太子・懿德太子・節湣太子の四太子廟が別祖として大がかりに祀られている非を上言し、太常博士段同ら二十七人の反論との間で議論となったが、結果は吏卒の半減にとどまった。
- 太常博士に転じてからは、昭成皇后の睿宗廟祔祀に伴い粛明皇后も並べて祔祀すべきとの議に反対し、粛明皇后は別廟とすべきと主張して詔可を得た。また博士蘇献とともに、睿宗を孝和(中宗)の弟として別後継とせず、中宗を別廟とすべきと論じ、睿宗を高宗の第七室に列した。
- 開元五年に太廟が壊れた際、伊闕の孫平子が「兄弟の順序を乱した祭祀が原因」と上書したのに対し、陳貞節は博士馮宗・蘇献とともに殷周の兄弟継承の先例を引いて反論した。議論は長期化し、玄宗は決しかねたが、最終的に中宗の廟位復帰はなされなかった。
- 翌年、玄宗が明堂での大享を計画した際、武后造営の明堂が「木は彫らず土は文らず」という古制に反すると批判し、乾元殿への復旧を建言。刑部尚書王志愔らの議により乾元正寝に復した。陳貞節は寿を全うして没した。