新唐書卷一百九十九 列傳第一百二十四 張齊賢

張齊賢

  • 張斉賢は陜州陜の人。聖暦初、太常奉礼郎となった。
  • 武后が明堂での告朔・読時令の礼を百官に議させた際、太常博士辟閭仁譚は「経に天子の月ごとの告朔の規定はなく、《玉藻》の『天子聴朔南門之外』、《周太宰》の『正月之吉、布政於邦国都鄙』が該当し、幹宝はこれを建子月の告朔と解する。今、元日に時令を読むのはこの聴朔に合致する。鄭玄は独自に『必ず特牲で時帝・神を告げ文王・武王を配す』と説くがこれは誤り、《月令》の記述は宣令であり天子月朔での祭配ではない、告朔は本来諸侯の礼、天子が月ごとに廟で告朔するとの鄭玄説も魯が文公以来視朔を廃した史実から見て天子の慣例ではない、告朔・月祭は廃すべき」と論じた。張斉賢はこれに反論し、《穀梁》《左氏》《周太史》《玉藻》の記述を精査して「天子も閏月ですら告朔した、経の記述は天子・諸侯双方の告朔を明記しており、議者の解釈は誤り」と論じた。鳳閣侍郎王方慶もさらに「明堂は布政の宮、天子は正月上辛に南郊で十二月分の政を受け祖廟に蔵し月ごとに一政を明堂で布告する。旧説では天子が明堂に入るのは大享一・月告朔十二・四時迎気四・巡狩の年一の計十八回とされる、今、議者が歳首一回のみを許すのは狭すぎる」と論じた。成均博士呉揚吾らは「秦の滅学以来、告朔の礼は廃れた、四孟月・季夏に明堂の五時帝へ告げる形で張斉賢・王方慶の議を折衷すべき」と提案したが、数年を経ずしてこの礼も廃れた。
  • のち張斉賢は博士に累進。東都に太社を置く際、礼部尚書祝欽明が「周の田主は木を用いたが今の社主は石、いかに」と問うと、張斉賢は太常少卿韋叔夏・国子司業郭山惲・尹知章らと「《春秋》に『君は軍を進める際、社を祓い鼓に釁す』とあり社稷の主は石を用い携行できるものとした、崔霊恩は『石は地の実りの最たるもの』と説き、《呂氏春秋》も『殷人は社に石を用いた』とする、後魏の天平年間に太社の石主を遷した先例もあり由来は古い、周の田主の木は民間の社であり太社ではない」と論じた。旧主の寸法(長さ一尺六寸、方一尺七寸)の由来を問われると「社主の制は礼に伝わらないが、天子が親征に携行する以上重すぎてはならない。《礼記》に『社は土を祭り陰気を主る』、《韓詩外伝》に『天子の太社は方五丈、諸侯は半ば』とある、五は土の数、社主は長さ五尺(陰の数の均衡)、方二尺(陰偶を象る)、上を尖らせ生育を象り下を方形にし地の体を象り、半ばを土中に埋めて本末を均しくすべき、寸法は古尺で測るべき」と答えた。社稷壇の四方の色付けと中央の黄土被覆についても「天子太社は方五丈、四方に色を分け上に黄土を冒せ、天子が四方を覆う象りとすべき」と論じ、以後、壇の四面・階に方色を施し黄土で全面を覆う形式が定まった。祭牲は太牢とされ、先農を「帝社」、新たに「帝稷」を立てる制度も張斉賢らの参定による。
  • 中宗即位に伴い武后の東都廟を唐廟に改める議論で、七室を満たすため涼武昭王を始祖とする案が出た際、張斉賢は「《礼》では天子七廟、始封の君を太祖として百代不遷とするが、始祖については聞かない。殷の玄王から湯、周の后稷から武王まで、いずれも太祖の後裔として序列を成す。景皇帝(李虎)こそ唐の始封の太祖であり、代数が近いため今なお昭穆にある。武昭王を始祖に持ち上げるのは殷・周の卨・稷とは事情が異なる。魏は曹参を、晋は司馬卬を、宋は楚元王を、斉・梁は蕭何を、陳・隋は胡公・楊震を祖としない、なぜ武昭王だけを祖とするのか。漢が周の郊后稷に倣い堯を郊祀しようとした際も杜林が『周の興りは后稷から、漢の業は自ら興った』と反対し中止された例がある。武徳の当初、武昭王を祖に据えなかったのは正当な理由があったからで、今これを立てるのは詒厥孫謀(子孫への配慮)に反する」と論じた。博士劉承慶・尹知章もまた「王業の浅深・代系の遠近に応じ、功ある者を祖とし親が尽きた者は毀す、廟数を満たすためだけに昭穆の上位に遷主を持ち上げるべきでない。景皇帝が太祖でも代が浅く六室にあるなら室数は七に満たなくてよい、七廟という数自体が絶対ではない。高宗の神主が既に祔されているなら宣皇帝は遷すべきだが、始祖ではなく宗号もないので親が尽きれば再建できない、六室のままとすべき」と論じた。詔で宰相に裁定させ、祝欽明らは「博士三百人が張斉賢説(武昭王を祖としない)と劉承慶説(宣皇帝を遷す)の二説に分かれた、両案とも許可すべき」と上奏し、詔で許され、孝敬皇帝(李弘)が「義宗」として七室に加えられた。西京太廟も同様とされた。
  • 張斉賢は諫議大夫に累進し没した。