新唐書卷一百九十九 列傳第一百二十四 彭景直

彭景直

  • 彭景直は瀛州河間の人。中宗の景龍末、太常博士となった。献・昭・乾の三陵に毎日祭祀が行われていたことに対し、彭景直は「礼では陵は日祭せず、宗廟に月祭がある。王者は廟・祧・壇・墠を設け親疎に応じて段階を分ける。七廟一壇一墠制では考廟・王考廟・皇考廟・顕考廟が月祭、遠廟は祧として享嘗のみ、祧を去れば壇、壇を去れば墠となり祈禱ある時のみ祭る。譙周も『始祖・高祖・曾祖・祖・考の廟は朔ごとに薦めるが二祧廟は月祭しない』と述べ、古に日祭の例はない。現在の朔望・諸節での進食は近古の殷事・薦新に相当する。鄭玄は『殷事とは月の朔・半ばの薦新の奠』と説く。近世に朔望諸節を陵寝に祭るようになったのは古の礼ではない。漢の高祖から宣帝までは陵の傍らに廟を建て寝殿・便殿を設け日祭は寝殿、月祭は便殿で行ったが、貢禹は煩雑さを理由に郡国廟の廃止を献策し丞相韋玄成らも七廟以外の寝園の修理をやめる議論をした。四時の廟祭に戻すのが妥当」との漢儒の議論の推移を紹介し、「唐は古を択んで法とすべき、諸陵の日祭は廃すべき」と主張した。帝は従わず「礼は人情に応じて時代に沿うもの、なぜ古にのみ拘るのか」として乾陵は朝晡進奠、昭・献陵は日一進とし費用は朕の常膳を減じて充てよと詔した。
  • 帝崩御後、定陵への埋葬に際し和思皇后(武后に殺され喪所不明)の合葬が議論となり招魂で梓宮を合わせようとしたが、彭景直は「招魂の礼は古に伝えられていない、橋山の衣冠を蔵す故事に倣い、皇后の褘衣を納めて寝宮を復し、衣を輿に載せ太牢で告げ、方中(陵内)に納めて帝の梓宮の右に置き夷衾で覆うべき」と提案し、詔でこれに従った。彭景直はのち礼部郎中で終えた。