王元感
- 王元感は濮州鄄城の人。明経の高第に挙げられ博城丞に任じられた。紀王李慎が兗州都督のとき厚遇され、子の東平王李続を弟子入りさせた。天授中、左衛率府録事に累進し弘文館を直した。武后が郊祀・明堂・封嵩山を行った際、韋叔夏らと儀礼草稿を作成しその該博さを推された。四門博士に転じ弘文館を引き続き直した。
- 老いてもなお夜まで読書を続け、《書糾謬》《春秋振滞》《礼縄愆》など数十百篇を撰し、長安年間に献上して官筆・楮紙で秘書に写し蔵するよう願い出た。両館学士・成均博士に是非を議させると、祝欽明・郭山惲・李憲らの章句家は王元感が先儒の異同を批判するのを不快に思い議論で詰め寄ったが、王元感は説明を尽くして屈しなかった。魏知古はその書を見て「《五経》の指南だ」と嘆じ、徐堅・劉知幾・張思敬らはその異聞を惜しみ助力して連名で薦め、詔で儒宗と称えられた。太子司議郎兼崇賢館学士に任じられ、中宗の東宮官属として朝散大夫を加えられ没した。
- 王元感が三年の喪を三十六か月とする説を著し諸儒を批判したことに対し、鳳閣舎人張柬之は《春秋》《書》《礼》《儀礼》などの記述を精密に引きながら「三年の喪は二十五月」との説を四つの証拠で論駁した。当世はこの張柬之の議論を「聖人の教えに背かない」と評し、王元感の説は結局廃れた。