敬播
- 敬播は蒲州河東の人。貞観初、進士に及第。顔師古・孔穎達が《隋史》を撰する際、秘書内省に詣でて編纂に加わった。著作佐郎に累進し国史修撰を兼ねた。太宗の高麗遠征に従い、帝が戦の山を「駐蹕」と名付けたのを見て「鑾輿はもう東征しないだろう、この命名は天意によるものだ」と語り、実際その通りとなった。太子司議郎に転じ、新設のこの清要な職に中書令馬周は「わたしの経歴が高すぎてこの職を経られなかったのが恨めしい」と羨んだ。令狐徳棻らと《晋書》を撰し、その凡例の多くは敬播の考案によるものである。
- 有司が「謀反大逆は父子のみ連座し兄弟には及ばぬ、これを改めるべき」と建言した際、詔で群臣に議させると敬播は「兄弟は骨肉の重さがあるが父子には及ばない、生きては別家、死しては別宗を成す。高官の蔭も子孫にのみ及び兄弟には及ばないのに、なぜ蔭は隔てながら罰は均しく及ぼすのか」と論じ、詔はこの議に従った。
- 永徽以後、諫議大夫・給事中を歴任した。かつて許敬宗と《高祖実録》を撰し創業から貞観十四年までを記し、この時さらに《太宗実録》を撰し貞観二十三年までを記した。事に連座して越州長史に出て安州に転じ任地で没した。
- 房玄齢はかつて敬播を「陳寿の流だ」と称した。房玄齢は顔師古注《漢書》の文の煩雑さを憂い要点を四十篇にまとめさせた。当時《漢書》の学は大いに興り、劉伯荘・秦景通兄弟・劉訥言が名家として知られた。
附 劉伯莊
- 劉伯荘は彭城の人、弘文館学士から国子博士に転じ許敬宗らと多くの編纂を行い崇賢館学士で終えた。自らの著書も百余篇に及ぶ。
伯莊子 之宏
- 子の劉之宏はその学を継ぎ、武后時代に著作郎兼修国史を経て相王府司馬で終えた。睿宗即位後、秘書監を追贈された。
附 秦景通
- 秦景通は晋陵の人。弟の秦暐と共に名高く、いずれも《漢書》に精通し「大秦君」「小秦君」と称された。当時《漢書》を治める者はこの兄弟に学ばねば正統でないとされた。秦景通は太子洗馬兼崇賢館学士に至り、秦暐も後に同官を継いだ。
附 劉訥言
- 劉訥言は乾封中、都水監主簿を経て《漢書》を沛王に授けた。王が太子になると洗馬兼侍読に抜擢された。俳諧集十五篇を編み太子を楽しませたが、太子廃位の際、高宗の怒りに触れ除名され民に落とされた。さらに事に連座し流罪先の振州で死んだ。