何易于
- 何易于は出自不詳。益昌令として、州から四十里の距離にある州へ刺史崔朴が賓客と共に春に舟遊びをする際、民に船曳きを命じたのに対し、何易于自ら舟を曳き「今は春、百姓は耕作・養蚕の時期、暇なわたしがその労を引き受けるべきです」と答え、崔朴は恥じて客と共に急ぎ去った。
- 塩鉄官が茶の専売利を徴収する詔が下った際「益昌の民は茶税なしでも生きられぬのに、これ以上重税で苦しめるのか」と詔書を棚上げにし、吏の「詔に逆らえば公も罪を免れない」との忠告に「わたし一身の犠牲で民に暴政を及ぼさぬのが役目、あなた方に罪は及ばせない」と答え自ら詔書を焼いた。観察使はその賢を知り咎めなかった。葬儀を出せない死者には俸給から吏に手配させた。高齢者を招いて政の得失を尋ね、訴訟の際には道理を丁寧に説き杖罰で済ませ吏に委ねず、獄には三年間囚人がいなかった。賦役の督促でも貧しい戸には迫らず自ら俸給から代納した。饋贈の往来は伝符の他は一切受けず名声を求めなかった。中上の考課で羅江令に転じた。刺史裴休が訪れた際も従者は三人までとし、その廉約は生来の性質によるものであった。