新唐書卷一百九十六 列傳第一百二十一 孔述睿

孔述睿

  • 孔述睿は越州山陰の人、梁の侍中孔休源の八世孫。高祖の孔徳紹は竇建徳に仕え中書侍郎として太宗を誹る檄文を書いたが、竇建徳平定後に捕らえられ「なぜそのような檄を書いたか」と問われ「犬は主でない者にも吠える」と答え、太宗の怒りを買い楼から突き落とされた。曾祖の孔昌寓は字を広成といい、貞観中に対策で高第となり魏州司馬として治績を挙げ帝はその功で刺史を置かなかった。祖の孔祖舜は監察御史から成武令に左遷されたが雉が庭に馴れる瑞祥があった。
  • 孔述睿は兄の孔充符・弟の孔克譲と篤い孝行で知られ、父を失った後は共に嵩山に隠棲した。学を好み大暦中、劉晏の推薦で太常寺協律郎から司勲員外郎・史館修撰に累進したが、昇進のたびに辞退して帰ることを常とした。
  • 徳宗即位後、諫議大夫を拝命し河南尹趙惠伯が詔書束帛を持って迎え、別殿での引見や邸宅・厩馬を賜り皇太子侍読も兼ねたが固辞、秘書少監兼右庶子に改め再び史館修撰となった。《地理志》を精緻に整理し、謙譲な性格で親朋の会でも厳粛に振舞い人々に畏れられた。同僚令狐峘にしばしば侮られても争わず、長者と称された。
  • 貞元四(788)年、帝は平涼の難を悼み孔述睿の誠実さを見込んで祭祀を委ねた。病により辞職を願い、太子賓客として帰郷を許され、致仕者には通常公馹(駅馬)を給しない慣例を破って特別に給された。享年七十一で没し工部尚書を追贈された。
  • 子の孔敏行は字を至之といい、元和初に進士に及第。呂元膺の幕府に招かれ各地に随行し、右拾遺から司勲郎中・集賢殿学士・諫議大夫に累進。李絳が殺害された事件で監軍楊叔元の関与を誰も口にしない中、上書して極論し楊叔元を罪に問うた。名臣の子として若くから清廉であったが、豪俊との交遊で名を馳せた分、雅操では父に及ばなかったと評された。享年三十九で没し工部侍郎を追贈された。