新唐書卷一百九十六 列傳第一百二十一 賀知章

賀知章

  • 賀知章は字を季真といい、越州永興の人。性は闊達で談論に優れ、族姑の子陸象先と親しく、象先は「季真の清談風流に一日会わねば俗になる」と評した。
  • 証聖初、進士・超抜群類科に及第し累進して太常博士となる。張説が麗正殿修書使のとき賀知章・徐堅・趙冬曦を招いて《六典》等の編纂に当たらせた。開元十三(725)年、礼部侍郎兼集賢院学士を同日拝命した際、宰相源乾曜が張説に「学士と侍郎どちらが名誉か」と問うと、張説は「侍郎は衣冠の栄達だが役人に過ぎない、学士は先王の道と経緯の文を担う、格が違う」と答え、玄宗自ら賛を作って賀知章に賜った。太子右庶子・侍読を歴任。
  • 申王の薨去に際し挽郎の人選が不公平とされ賀知章は工部に左遷され、粛宗が太子の頃、賓客・秘書監に任じられ、左補闕薛令之も侍読を兼ねた。東宮の官が長らく昇進しないことに薛令之が壁に不満を書き記すと帝は「安んずるを聴す者は自ら安んずればよい」と題を返し、薛令之は官を棄てて徒歩で郷里に帰った。
  • 賀知章は晩年ますます奔放になり、市井に遊んで「四明狂客」「秘書外監」と自号した。酔うたびに詩文をよどみなく書き整わずとも見事だった。草隷に優れ好事家が筆硯を持って従っても機嫌次第で応じ、わずか十数字でも珍重された。
  • 天宝初、病んで天帝の居を夢見て以来、道士となり郷里に帰ることを願い許された。旧宅を千秋観とし、鏡湖剡川の一曲を放生池として賜った。出発時に帝は詩を賜り皇太子以下百官が送別、子の賀曾子は会稽郡司馬に、幼子も道士となることを許された。享年八十六で没し、粛宗乾元初、旧交ゆえに礼部尚書を追贈された。
  • 薛令之は長渓の人。粛宗も旧恩から召そうとしたが既に没していた。