新唐書卷一百九十六 列傳第一百二十一 孫思邈

孫思邈

  • 孫思邈は京兆華原の人。諸子百家に通じ老子・荘子を能く語った。周の洛州総管独孤信は少年時代の孫思邈を見て「聖童だが器が大きすぎて用いにくいかもしれない」と評した。成長して太白山に隠棲。隋文帝が国子博士に招いても応じず「五十年後に聖人が出て、わたしはこれを助けよう」と語ったという。太宗初、京師に召され既に老齢ながら耳目は明晰で、帝は「有道の者だ」と感嘆し官職を勧めたが受けなかった。顕慶中、諫議大夫に召されたが固辞、上元元(674)年、病を理由に山に戻り、高宗は良馬を賜り鄱陽公主の邸の司をその居所とさせた。
  • 陰陽・推歩・医薬すべてに通じ、孟詵・盧照鄰らが師事した。悪疾を患った盧照鄰が「高医はどう病を癒すのか」と問うと、孫思邈は天地の四時五行と人体の四肢五臓が同じ理に基づくと説き、天地の異変と人体の病を対応させ「高医は薬石で導き聖人は徳と人事で救う」と答えた。さらに人事の要諦として、心は君主として恭・小、胆は将として果決・大、仁は地の象として方、智は天の象として円であるべきと説いた。養性の要を問われると、天に盈虚があり人に屯危があるように、慎みを本とし、士農工商・父子君臣それぞれが畏れを失えば道を失うと説いた。
  • 魏征らが斉・梁・周・隋の五代史を修めた際、しばしば孫思邈に遺聞を尋ねその伝は最も詳しかった。永淳初、百余歳で没し、薄葬を遺言し明器を蔵さず祭りに牲牢を用いぬよう命じた。
  • 孫処約が子らを見せたとき「先に顕れるのは俊(孫俊)、遅く貴くなるのは侑(孫侑)、佺(孫佺)は兵を執る禍がある」と予言し的中した。太子詹事盧斉卿が若い頃「五十年後に方伯となり、わが孫がその属吏になる、自愛せよ」と予言し、後に孫思邈の孫孫溥が蕭丞となり盧斉卿が徐州刺史となって符合した。