田游巖
- 田游巌は京兆三原の人。永徽の頃、太学生に補されたが辞して太白山に入った。母と妻もいずれも脱俗の志を持ち、共に山水に隠れた。蜀から荊・楚を経て夷陵の青渓を愛し廬を結んだ。長史李安期がその才を推挙し京師に招かれたが、汝州まで来て病と称し箕山に隠れ許由の祠の傍らに住み「由東鄰」と号し、召しに応じなかった。
- 高宗が嵩山に行幸した際、中書侍郎薛元超を送って母を見舞わせ、帝自ら門を訪ねた。田游巌は野服で拝すると「泉石膏肓・煙霞痼疾の身です」と答え、帝は「朕はあなたを得た、漢が四皓を得たのと同じだ」と喜んだ。薛元超は「漢は嫡子を廃し庶子を立てようとしたから四皓が出たが、陛下は自ら巌穴に降臨されたのだから比べものにならない」と讃えた。帝は喜び、田游巌の家族を都に迎え崇文館学士とした。奉天宮の造営で田游巌の旧宅が宮の左に重なると詔で毀すことを禁じ、天子自ら「隠士田游巌宅」と扁額を記した。太子洗馬に進んだが裴炎の死に連座して山に帰された。以後は耕作に専念し当世と交わらず、韓法昭・宋之問とのみ方外の交わりを結んだ。
- 当時、昆山の史徳義も虎丘山に住み牛に乗って瓢を提げ市井を歩いた。高宗がその名を聞いて洛陽に召したが間もなく病と称して帰り、天授初、江南宣労使周興の推薦で再び都に召され朝散大夫に至ったが、周興の死後は官を免じられ声望も衰えた。