新唐書卷一百九十二 忠義中 顔杲卿・賈循・張巡・許遠・南霽雲・雷万春・姚訚

顔杲卿

  • 顔杲卿は字を昕といい、顔真卿とは同じ五世祖を持つ文儒の家柄。父の顔元孫は垂拱年間に名を知られ濠州刺史となった。顔杲卿は蔭位で遂州司法参軍に任じられ、剛正な人柄で刺史の詰責にも屈しなかった。開元中、兄の顔春卿・弟の顔曜卿とともに書判超等の評価を得、吏部侍郎席豫に賞賛された。范陽戸曹参軍として最高の評価を得た後、安禄山にその名を知られ営田判官・仮常山太守とされた。
  • 安禄山反乱後、顔杲卿と長史袁履謙は道で禄山に謁見し紫袍・緋袍を賜り、仮子李欽湊とともに土門に駐屯を命じられた。顔杲卿は賜った衣を見せて袁履謙に「なぜこれを着るのか」と語りかけ、袁履謙は意図を悟って真定令賈深・内丘令張通幽と共謀した。顔杲卿は病と称して政務を委任し、密かに処士権渙・郭仲邕と策を練った。真卿が斬った賊の使者段子光の首を送り届けたことを機に、両者は挟撃の計を進めた。李欽湊を城外に留めた上、酒宴で酔わせて斬り、賊将潘惟慎も殺して屍を滹沱水に投じた。
  • 続いて高邈・何千年ら禄山の使者も捕らえて長安へ護送し、これにより顔杲卿は衛尉卿兼御史中丞、袁履謙は常山太守に任じられた。王師二十万が土門に入ったとの偽情報を広めて敵を威圧すると、趙・鉅鹿・広平・河間などが呼応し、樂安・博陵・上谷・文安・信都・魏・鄴の諸郡も自立し、顔氏兄弟の兵は大いに振るった。
  • 安禄山は陜に至り兵の蜂起を聞いて恐れ、史思明らに常山を攻めさせた。援軍を欠いた常山は六日で陥落、顔杲卿・袁履謙は捕らえられた。降伏を迫られ、幼子顔季明を殺すと脅されても応じず、顔季明・権渙は共に殺された。洛陽に連行された顔杲卿は禄山を「営州の羊飼いの奴め」と面罵し、天津橋の柱に縛られ肉を切り取られながら罵り続け、舌を切られてなお絶命寸前まで抵抗した。享年六十五。袁履謙も手足を断たれ惨殺された。宗族近親も多く害された。
  • のち張通幽が兄の裏切りを楊国忠に讒言したため恩賞は与えられなかったが、顔真卿の上表と李光弼・郭子儀による常山奪還を経て、乾元初、顔杲卿に太子太保・謚忠節が追贈され、妻は崔清河郡夫人に封じられた。建中中、司徒も追贈された。屍は流転の末に長安鳳棲原へ葬られた。
  • 顔杲卿の子顔泉明は父の遺族を捜し集めて世話し、常山陥落後の困難を乗り越えて袁履謙一族三百余人を扶養、河北から真卿の元へ導いた。肅宗は郫令に任じ善政を敷き、成都尹はその功を第一と評した。母の喪では毀れるほど哀しみ、当時その行いは難事とされた。

顔杲卿兄 春卿

  • 顔春卿は美麗な容姿で当世に通じ、十六歳で明経・抜萃に高第で及第、犀浦主簿となった。徒刑者の籍を失った際、口頭で千人の特徴を記憶していたという逸話がある。魏征の遠孫魏瞻の死罪を玉真公主に嘆願して救うなど節義で知られ、偃師丞で終えた。臨終に真卿へ「わが一族を大成させよ」と託し、真卿は後にその子らの婚姻を取り仕切った。

附 沈盈

  • 沈盈は顔杲卿の甥で義行を持ち黄老学に明るかった。博野尉となり顔杲卿と共に難に殉じ、大理正を追贈され二子沈遙・沈達に官が与えられた。

賈循

  • 賈循は京兆華原の人、先祖は常山の出。父賈会は高節で知られ「一龍」と称された孝行者。賈循は才略があり、益州で列将となり吐蕃を破って靜塞軍営田使に累進、張守珪の遠征では凍った灤河に橋を架けて渡河を可能にし、擢げられて榆関守捉使となった。范陽節度使李適之の推薦で安東副大都護、安禄山の副使として博陵太守となり光禄卿として留後を知った。母の葬儀に枯れた桑が一夜で再生する瑞祥があり、玄宗はその功に応じて父を常山太守に追贈させた。
  • 安禄山反乱時、幽州を守っていた賈循は顔杲卿の招きに応じたが、向潤客らに謀を暴かれ縊り殺された。建中二(781)年、太尉・謚忠を追贈された。

賈循從子 隱林

  • 賈循の甥賈隠林は永平兵馬使として朱泚の乱で行在を扈従し、徳宗にその容貌を見込まれ手板に攻守の計を描いて奏上、「日が墜ちるのを首で支える夢を見た」と語ると帝は「朕のことか」と驚き、検校右散騎常侍・武威郡王に封じられた。
  • 朱泚軍の包囲で侯仲莊とともに死戦し、乱が解けた後も「陛下の性急さを改めねば憂いは絶えない」と諫言、帝は忤らず神策統軍に任じた。没後、尚書左仆射を追贈され三百戸の実封を賜った。

張巡

  • 張巡は字を巡といい、鄧州南陽の人。博学で戦陣の法にも通じ、志は高邁で細事にこだわらなかった。開元末、進士に及第、清河令として治績を挙げ困窮者を厚く助けた。楊国忠の専権時代、面会と重用を勧められても「これは国の凶兆であり仕えるべきでない」と断り、真源令に転じた。豪猾な大吏を法に照らして誅し善政を敷いた。
  • 天宝十五(756)年正月、安禄山の乱で宋・曹等州が陥落、譙郡太守楊万石も降伏し張巡に西へ賊軍を迎える長史役を強いたが、張巡は玄元皇帝の祠で兵を興し討賊に挙兵、千余人が従った。単父尉賈賁と合流し雍丘で県令令狐潮の裏切りに対抗、賈賁の戦死後は張巡が主軍となり、河南節度使の代理呉王李祗から兗州以東の経略を委ねられた。
  • 令狐潮の四万の軍勢に対し奇襲策で撃退を重ね、糧秣を奪う夜襲や藁人形で矢を集める計略(草人借矢)、死士による夜襲で潮軍を混乱させるなど数々の戦術で持ちこたえた。降伏を勧める内部の将六人を処刑して士気を保ち、令狐潮の懐柔策も拒絶した。
  • 河南節度使嗣虢王李巨の下で寧陵を守り、太守許遠・城父令姚訚と合流して睢陽を防衛。李希烈配下の敵将を数多く討ち取り、御史中丞に任じられた。至徳二(757)年、安慶緒の将尹子琦が十余万の兵で睢陽を包囲。張巡と許遠は協力し、南霽雲らを死地に送って援軍を請うも賀蘭進明は動かず、南霽雲は指を切って忠義を示す壮絶な逸話を残した。
  • 兵糧が尽き、人肉を食う凄惨な籠城戦の末、十月、睢陽は陥落し張巡・許遠は捕らえられた。張巡は尹子琦に「わたしは逆賊を呑み込みたかったが力及ばなかった」と答え、屈せず斬られた。享年四十九。南霽雲・姚訚・雷万春ら三十六人も共に殉じた。許遠は洛陽への護送中、偃師で屈せず死んだ。
  • 張巡は用兵において古法によらず「将は士の心を知り、士は将の意を知る」独自の戦術を用い、大小四百戦で敵将三百・兵士十余万を討ったとされる。中書侍郎張鎬が節度使として睢陽陥落三日後に到着、十日後に洛陽が回復した。議論としては「食人までして城を守った是非」を問う声もあったが、張淡・李紓ら名士たちは張巡・許遠が江淮を守り天下を保った功績を称え、天子は張巡に揚州大都督、許遠に荊州大都督、南霽雲に開府儀同三司・揚州大都督を追贈し子孫を厚遇した。睢陽には「双廟」と呼ばれる祠が建てられ、今なお祭祀が続く。

許遠

  • 許遠は右相許敬宗の曾孫、寛厚な長者で吏治に明るかった。玄宗に推薦され睢陽太守となり、張巡とは同年生まれで年長のため張巡から兄と呼ばれた。
  • 大暦中、張巡の子張去疾は「城陥落は許遠の担当区域から始まり、張巡以下の将校は皆惨殺されたが許遠配下は無事だった」として許遠の忠誠を疑い官爵剥奪を求める上書を行い、朝廷で議論となったが、事実関係が明確でないまま議論は打ち切られた。
  • 元和年間、韓愈は李翰の張巡伝が許遠の事績を欠くのを正し「二人は死に至る時期が違っただけで、共に節を守った」と弁護、「城が己の管轄から陥ちたことを咎めるのは童子の見解に等しい」と論じた。

南霽雲

  • 南霽雲は魏州頓丘の人、若い頃は貧しく船頭であった。安禄山の乱で鉅野尉張沼の挙兵に応じ将となり、尚衡の下で先鋒を務めた後、張巡の下に留まり深く信頼された。囲まれた城で決死隊を募った際に真っ先に応じた人物であり、騎射に優れ百歩以内で必ず命中させたという。子の南承嗣は涪州刺史を経て劉辟の乱の際に備え不足で永州に左遷された。

雷万春

  • 雷万春は出自不詳ながら張巡の偏将として仕えた。令狐潮の雍丘包囲時、城上で顔に矢を六本受けても動じず、令狐潮はその不動ぶりに驚嘆したという。潮の襄邑・寧陵奇襲策を張巡が見破り、雷万春に騎兵四百で迎撃させ大破した。方略では南霽雲に及ばぬが強毅で命令をよく守り、張巡は両者を同等に重用した。

姚訚

  • 姚訚は開元の宰相姚崇の従孫、父姚弇は楚州刺史。豪放で酒宴と音楽を好んだ。壽安尉から張巡と親交を結び、城父令として睢陽防衛に加わり東平太守に累進した。
  • 南霽雲・雷万春の寧陵での勝利には別将二十五人が従軍し、多くが後に睢陽で殉じた(石承平・李辞・陸元锽・朱珪・宋若虚・楊振威・耿慶礼・馬日升・張惟清・廉坦・張重・孫景趨・趙連城・王森・喬紹俊・張恭黙・祝忠・李嘉隠・翟良輔・孫廷皎・馮顔、うち四人は姓名が伝わらない)。

史論

  • 史臣は論じて言う。張巡・許遠は真の烈丈夫である。疲弊した数万の兵で孤城に籠り、圧倒的な賊軍の喉元を扼して東南への進出を防ぎ、梁・宋の間で敵の首尾を分断した。大小数百戦、力尽きて死んだが、唐は江淮の財用を保って中興を成し遂げた。張巡は先に死んでも慌てず、許遠は後に死んでも節を屈しなかった。張巡の死からわずか三日で援軍が到り十日で賊が滅んだのは、天が二人に完き節を全うさせたからであり、生きながらえて名声を得たわけではない。宋の章聖皇帝も睢陽の廟に立ち寄り、その節義を石に刻んで讃えた。伯夷・叔斉が首陽山で餓死したことを孔子が仁と称えたのと同じである。