新唐書卷一百八十九 列傳第一百十四 田頵

出自と楊行密配下での台頭

  • 田頵は字を徳臣といい、廬州合肥の人。書物にも通じ、沈着で大志を抱いていた。楊行密と同郷で義兄弟の契りを結んだ。辺境募兵に応じ主将に進んだ。行密が廬州を得ると頵は策謀に長けた。宣州の趙锽を攻めた際、锽が東渓に逃れ流れに乗じて逃げようとしたが、頵は軽舟で追い甲を脱いだ隙に捕らえた。行密は頵を馬歩軍都虞候に表薦した。
  • 沙陀の叛将安仁義が淮南に投じると行密は喜んで騎兵を任せ頵と並ぶ地位に置き、二人は軍中で名を馳せた。ともに常州を攻め刺史杜棱を殺し、潤州に駐屯していた銭鏐は一夜で潰走した。孫儒が南下し頵らが丹陽に布陣した際、儒が揚州を焼いて広徳に布陣したのを頵が破った。しかし別の戦いで敗れた際、行密は怒って兵を奪ったが、ある者が「強敵が迫る中で頵を用いぬのは得策でない」と諫め、行密は頵を再び用いた。儒は仁義に偽って通好し行密を疑わせようとしたが行密は却って厚遇し、行軍副使に任じた。結局この二人の功により儒を捕らえた。行密は仁義を潤州刺史、頵を寧国軍節度使に表薦し、累進して検校太保・同中書門下平章事に至った(仁義も検校太保に至る)。

離反と滅亡

  • 頵は馮弘鐸を平定した後、揚州に赴いて行密に謝意を示したが、周囲の者が絶えず賄賂を求め獄吏まで賄賂を要求したため、頵は「役人どもは私が獄に入るのを望んでいるのか」と怒った。さらに池・歙の両州を属地として求めたが行密が許さなかったため頵は不満を抱き、帰り際に府門を指して「もう二度とここには入るまい」と言い放った。
  • この頃、銭鏐の部将徐綰が叛き、鏐が杭州に入って綰を追うと綰は霊隠山に籠って頵を頼った。頵は客の何暁を遣って鏐に「東の会稽に退くべきで無益な戦をするな」と説かせたが、鏐は「軍中の小さな反乱はよくあることだ、あなたほどの人物がなぜ逆賊を助けるのか」と拒絶した。頵は北門を攻め、鏐は城上から応じつつ頵の麾下を射た。頵は往来を断つ砦を築いたが、鏐は金幣十車を懸けて奪還を募り、陳璋が決死の士300で兜を脱いで奇襲し地を奪還、鏐は璋を衢州刺史とした。頵は城を落とせず長江を渡って西陵を絶とうとしたが鏐の将に阻まれ包囲はさらに厳しくなった。
  • かねて行密は鏐の子を娘婿にと望んでいたが、鏐は急ぎ使者を送って娘を迎えさせ、行密に「頵が志を得れば必ず大患となる、我が子を人質に出すので頵を召還してほしい」と告げた。行密は頵に「戻らねば代わりの守将を送る」と伝えたが頵は従わなかった。鏐は2百万緡を軍に贈り、さらに子の元瓘を人質に出すことで頵は綰とともに撤兵した。しかし頵は内心行密と鏐の双方を恨み、書を送って「侯王が方鎮を守り天子に仕えるのは、百川が海に朝するようなもの。たとえ奔放に流れても最後は涸れた土になるだけで、素直に流れるに越したことはない。東南は揚州が最大で財貨は山と積まれている、公が天子への常賦を望むなら私がすべて備蓄し単身赴くつもりだ」と述べた。行密は「貢賦は汴を経由して届けられるだけで敵を利するに過ぎぬ」と答え、頵は行密と絶縁して大いに募兵した。李神福は行密に「頵は必ず叛く、先に手を打つべき」と進言したが、行密は「頵には大功があり反乱の兆候も明確でない、殺せば諸将が従わなくなる」と応じなかった。頵はその臣下杜荀鶴を汴に送り通好し、全忠は喜んで宿州に布陣して変化を待った。行密は頵の下にいた康儒を廬州刺史に任じて頵を離間させようとし、怒った頵は儒の一族を殺し、儒は「あなたが私の策を用いなかったから死に場所を失った」と語った。
  • 頵は安仁義と結んで昇州を攻め、刺史李神福の妻子を捕らえて厚遇した。神福が劉存とともに鄂州を攻めていた際、行密は召還した。神福は諸将に「頵の反乱は腹心の病、速やかに討つべき」と告げた。頵の部将李皋が神福に「あなたの家族はここにある、私に従えば土地を分けて王としよう」と誘ったが神福は「私は一介の兵から呉王に従い上将となった、妻子と引き換えに志を変えることはない」と答え、皋を斬って頵軍を曷山で破った。頵の将王壇らは舟師で神福の後を追ったが吉陽磯で戦わず、日暮れに神福軍の渡河途中を襲おうとしたところ神福は舟を返して逆に急撃、火を放って多くを討ち取った。翌日再戦した壇は皖口で敗れ、頵自ら出陣したが神福は「賊が城を捨てて来るとは天の亡ぼす所」と水際で堅く守り、行密に頵の退路遮断を求めた。
  • 安仁義は東塘の戦艦を焼いて夜に常州を攻めたが落とせず、夾岡まで転戦し旗2本を立てて甲を脱ぎ休息すると追撃側もあえて向かわなかった。頵は蕪湖に舟を並べ、行密は王茂章に潤州攻めを命じた。仁義は射術で軍中随一とされ、当時「朱瑾の槊、米誌誠の弩、皆天下一」と称された中で、仁義自身は「誌誠の弩10は瑾の槊1にも及ばず、瑾の槊10は私の弓1にも及ばない」と語り人々もそれを認めた。軍紀も厳しく士心をよく得ており、数百の兵で濠梁を守っても崩さず、開戦の際は先に相手に告げてから矢を放つ律儀さがあり、王茂章らも決着をつけられなかった。行密は使者を送り「あなたの功は忘れない、自ら帰参すれば再び行軍副使とするが兵権は持たせられない」と伝えた。仁義は降ろうとしたがその子が強く諫めて思い留まった。
  • 行密は将の台濛に「頵が必ず叛くと告げる者は多かったが人を疑いたくなかった、しかし頵は私を裏切った。将たる者、あなたしかいない」と涙ながらに語り、濛は騎兵を率いて渡江した。士は当初その用心深さを笑ったが濛は「頵は経験豊かで謀多し、備えて何の害があろうか」と答えた。王壇らと広徳で戦った際、濛は行密の書を諸将に示すと皆恐れ入り、濛が兵を進めると壇は敗走した。神福が不戦で頵を苦しめる中、頵は母の病を偽って蕪湖に戻ったが、壇の敗北を聞くと精兵2万を郭行琮に預けて城に籠った。濛の陣は小さく見せかけていたため頵は油断して増援を送らず、黄池で戦端が開くと濛は偽って敗走、頵軍が追撃したところで伏兵にあい大敗、蕪湖の兵に助けを求めたが入れなかった。行琮と壇はいずれも行密に降り、頵は怒って死士数百を「爪牙都」と号して自ら決戦に臨んだ。濛は退いて弱く見せかけ、士が塁を越えると濛は死力を尽くして戦い頵軍は潰えた。頵は城へ逃れたが橋が落ちて乱兵に殺された。享年46。なお戦い続けていた部下も頵の首を示されるとついに潰えた。
  • 頵はかつて元瓘(鏐の子で人質)を戦況が不利になるたび殺そうとしたが頵の母がその都度救った。鏐と行密が結んだ後、頵は「今日勝てねば必ず元瓘を殺す」と言ったが、まもなく頵自身が死んだ。頵の首は淮南に送られ、行密は涙を流し庶人の礼で葬り、康儒も同様に葬らせ、元瓘は杭州へ送り返した。
  • 頵は善政を敷き資質は寛厚で商賈の往来を利し民に慕われた。士人の待遇も厚く、楊夔・康軿・夏侯淑・殷文圭・王希羽らは皆上客として遇された。文圭は名声高く朱全忠や銭鏐が招いても応じなかったが、頵は文圭の田宅を用意しその母を迎えて甥のように仕えたため文圭は力を尽くした。楊夔は頵が行密に対抗できぬと見て『溺賦』を著して戒めたが頵は用いなかった。
  • 行密は王茂章に潤州を地下から掘り取らせ、安仁義は家族を城楼にかくまい兵は恐れて登れなかった。仁義は李徳誠に「お前は命を委ねてよい」と語り、自ら弓矢を捨てて縛につき、父子ともに揚州の市で斬られた。

附 台濛

  • 台濛は字を頂雲といい、同じく合肥の人。頵が破れると行密は検校太保・宣州観察使に表薦した。天祐初年(904年)に卒した。