新唐書卷一百八十九 列傳第一百十四 高仁厚
高仁厚、系譜不詳。剣南西川節度使陳敬瑄配下の武将で、黄巣の乱に伴う京師動乱の鎮圧や、蜀地の反乱(阡能・韓秀升・楊師立ら)の討伐で武功を重ね、剣南東川節度使に至った。光啟2年(886年)、旧部下の反乱に巻き込まれ討たれた。
年表(2件)
- 光啟二年886年梓州で旧部下の反乱が起き、これに攻められ斬られた
- 乾寧年間(894~)898年没後、司徒を追贈された
出自と黄巣討伐
- 高仁厚は系譜不詳。初め剣南西川節度使陳敬瑄の営使として仕えた。黄巣が京師を陥落させ天子が成都に避難すると、敬瑄は黄頭軍部将の李鋋・鞏鹹に1万5千の兵で興平を守らせ度々黄巣軍を破った。賊は蜀兵を「鵶児(からす)」と呼び恐れて戦を避けるよう戒めたという。敬瑄は蜀兵の有能さを喜び、さらに2千を選んで仁厚に率いさせ東進させた。
- 京師には不良の徒が畳帯を着け閭里で乱暴する「閑子」がおり、京兆尹が着任のたびに首謀者を処刑して威圧していた。竇潏が京兆を治めた際は数十百人を処刑したがなお絶えなかった。黄巣が京師に入ると人々は寶雞に避難したが閑子はこれを掠奪し官吏も制御できなかった。仁厚はその実態を知り、軍を入れて邑閭を封鎖し閑子が油断して集まったところを数千人斬った。坊門を閉ざしていたため逃げられず全滅し、以後閭里は安定した。
蜀の乱平定と東川節度使就任
- 邛州の賊阡能が数万の兵で諸県を侵し数十の砦を構え、涪州刺史韓秀升や韓求も蜀州で反乱を起こし諸将は鎮圧できずにいた。敬瑄は仁厚を呼び戻し四方の討伐を命じ永安に駐屯させた。阡能の間者が捕らえられた際、間者は「父母妻子が賊に囚われている」と訴え、仁厚は哀れんで「賊に告げよ、明日戦うが甲を脱いで迎える者には『帰順』と背に記させ皆帰農させる」と言って解放し、諸将に柵を壊させ進軍させた。賊将羅渾擎は偽って降伏し伏兵を仕掛けたが、仁厚は非武装で入って諭したところ大半が真に降伏し、渾擎は逃亡を図って捕らえられ「愚か者は語るに足らぬ」と一蹴された。降兵に「帰順」と記させると諸砦にも動揺が広がり、賊帥句胡僧を部下が斬って降伏した。韓求も大勢が決したと知り「出る者は斬る」と号令したが罵られ、水に身を投げて死に、その屍は引き上げられ晒された。他の砦もすべて降った。仁厚は焼き払わず財糧を回収した後に火を放ち、成都に賊の屍を晒した。仁厚は帰還し天子は楼上から軍をねぎらい、検校尚書左仆射・眉州刺史に任じた。
- 敬瑄は仁厚に「秀升がまだ捕らわれず貢輸が妨げられ百官の俸禄も乏しく民も塩に事欠く。賊を破れば東川を任せよう」と語り、仁厚は同意して行軍司馬を拝命した。秀升の軍需と子女がすべて屯にあると知った仁厚は、精鋭を川岸に伏せて木を伐り水路を塞ぎ舟の航行を妨げ岸に沿って布陣した。遊軍で賊を挑発し、夜には千の兵に短刀・強弩を持たせ営に突入させ火を放って喧噪を起こさせた。秀升は舟兵で消火に向かったが仁厚は水中に潜らせて舟を沈め、多くの兵が恐れて逃げた。秀升が逃亡兵を斬って引き止めようとすると兵は怒って秀升を捕らえて降伏した。仁厚が理由を問うと「天子が都を追われる中、反逆したのは私だけではない」と答え、仁厚は檻車で行在に送り市で斬らせた。
楊師立討伐と死
- 東川節度使楊師立は元は神策軍出身で検校司空・同中書門下平章事に累進していたが、敬瑄と仁厚が自分に代わることを聞いて不満を抱いた。敬瑄が帝に諷し師立に尚書右仆射を兼ねさせようとすると師立はさらに怒り、敬瑄の十の罪を挙げて檄を飛ばし、監軍田繪を殺して涪城に布陣、綿州を攻めたが落とせなかった。剣州刺史姚卓文にも共に成都を攻めるよう檄を送り指揮応接使を仮に任じたが卓文は応じなかった。帝は師立の官爵を削る詔を出し、敬瑄は仁厚を東川節度留後、楊茂言を行軍副使、楊棠を諸軍都虞候として3万の兵で討伐させた。
- 師立は大将張士安・鄭君雄に鹿頭関を守らせた。仁厚は漢州に進み前軍が徳陽で戦い、師立は籠城して40日、夜に兵を出して北柵を乱そうとしたが仁厚は両翼に伏兵を配して柵を開き炬火を並べたため賊は進めず伏兵に破られた。楊茂言は仁厚が敗れると誤解し兵を引いて逃げたが後に戻った。翌日、諸将を集めた仁厚は「副使たる者、死をもって天子に報いるべき」と茂言を斬って徇した。以後士安は出撃せず、師立自ら督戦して10戦すべて敗れた。仁厚が城内に首謀者を斬れば恩賞を出すと約すと、鄭君雄は軍中で「天子が討つのは反逆者だけ、我らに何の関係があろうか」と叫び士安とともに投降を図り、仁厚の書を師立に示すと師立は「死をもって民に謝す」と自ら池に身を投げて死んだ。君雄はその一族をことごとく誅殺し首を天子に献じた。仁厚は府に入って囚人を釈放し貧民を救済した。詔により剣南東川節度使を拝命した。
- 光啟二年(886年)、師立の旧部が梓州を拠って敬瑄に背いた。鄭君雄は当時遂州刺史であったが漢州も陥落させ成都を攻めた。敬瑄は部将李順之を派して迎え撃たせ君雄は戦死した。さらに維・茂州の羌族の軍を発して仁厚を攻め、仁厚は斬られた。乾寧年間(894~898年)、二人とも司徒を追贈された。