新唐書卷一百八十八 楊時朱孫 楊行密(化源)・時溥・朱宣・孫儒
楊行密――出自と挙兵
- 楊行密は字を化源といい、廬州合淝の人。幼くして父を失い、遊びでも旗を立て陣形を組む遊びを好んだ。20歳で盗賊の仲間に入り刺史鄭綮に捕らえられたが、その相貌に感じ入った鄭綮に「お前はいずれ富貴の身になろう。なぜ賊などするのか」と諭されて釈放された。郷里の田頵・陶雅・劉威と親しく交わった。
- 僖宗が蜀に避難していた際、刺史の命で書状を1日300里の速さで届け期日通り帰還した。秦宗権が廬・寿の間を侵すと、刺史が募兵し首級を賞としたため行密は功により隊長となった。都将に妬まれ出戍を命じられた際、必要なものを問われ「あなたの首が欲しい」と答えて都将を斬り、自ら八営都知兵馬使となった。刺史が逃亡すると淮南節度使高駢が行密を廬州刺史に表薦した。田頵を八営都将、陶雅を左沖山将として郷盗を平定させた。
楊行密――高駢配下から揚州入城まで
- 高駢の部将呂用之は行密を制御できぬことを恐れ、俞公楚に5千の兵で合淝を守らせ、黄巣討伐を名目に密かに図らせたが、行密は公楚を撃ち殺した。秦宗権の弟が淮を渡って舒城を取ろうとしたが行密が撃退した。張敖の壽州・許某の滁州とも交戦。舒州の陳儒が刺史高澞を攻めた際は救援が間に合わず、賊の呉回・李本が澞を追い出したところを行密が虜にし舒州を奪ったがまた奪われた。光啟二年(886年)、張敖の将魏虔が廬州を攻めたが、大将の李神福・田頵が楮城で破った。
- 畢師鐸・秦彦が高駢を攻めた際、呂用之は駢の命として行密を行軍司馬に任じ援軍を出させた。客の袁襲の勧めで行密は東進し天長に至り、揚州が陥落すると城を包囲した。呂用之も兵を行密に付けた。秦彦の騎兵が城を背にして戦った際、行密は「賊が近づいたら知らせよ」と帳中で待ち、別将李宗礼が「兵力差があり不利、堅壁して退くべき」と進言したが、李濤が「順逆の別に多寡は関係ない、今さら退けようか」と怒り先陣を願い出て、行密はこれを喜び兵を増して出撃し賊を大破した。
- 高駢の死後、袁襲の勧めで喪服して哀悼の意を示し、揚州を攻めたが落とせずにいたところ、呂用之の部将張審晟が西壕に伏せて門番を殺し外兵を招き入れ、秦彦軍が疲弊し守りが崩れたため、行密は揚州に入城した。1ヶ月足らずで孫儒の大軍が迫り、袁襲は「寡兵で入城したばかりで守りが固まっていない、包囲されれば危険」と退避を勧めた。行密は海陵鎮遏使高霸を殺してその兵を併合し財貨を廬州に運んだ。この頃、朱全忠が自ら淮南節度使を称し張廷範を送って行密を副使、行軍司馬李璠を留後としようとしたが行密は激怒し廷範・璠は入城できなかった。全忠は改めて観察留後を行密に任せようとした。
楊行密――孫儒との死闘と宣州平定
- 孫儒の勢いは強く呉・越を呑む勢いであった。行密は海陵に逃れようとしたが袁襲は廬州に帰って再起を図るよう勧め、行密はこれに従った。さらに洪州へ向かおうとしたが襲は「鍾伝は新興で兵と食糧が充実し攻めがたい。和州の孫端・上元の趙暉と結んで宣州を図れば十分な力がある」と説き、行密はこれに従った。
- 端・暉は採石に布陣、行密は糝潭から渡河したが端らは敗れなかった。襲は「曷山へ速やかに進み堅壁して待て。宣州軍が求戦してくれば弱さを見せて油断させ、その隙を突けば一挙に破れる」と勧め、宣州の将蘇瑭2万と対峙した行密は戦わず奇兵で木を伐り四方に道を開いたため瑭は驚いて敗走し、宣州は包囲された。刺史の趙锽は糧が尽き部将の多くが降伏した。
- 行密は精鋭5千を黒装束で固め「黒雲都」と号し、盱眙・曲渓の兵を「黄頭軍」として李神福を都尉に任じた。曲渓将の劉金は趙锽を計略で誘い出し、锽が城から出ると士が「劉殿はお前の婿にはならぬ」と叫び、锽は夜逃げしたが捕らえられた。锽は全忠の旧知であったため助命を求める使者が来たが、袁襲の勧めで首を斬って全忠に送り後患を絶った。昭宗は行密を検校司徒・宣歙池観察使とした。
楊行密――孫儒との最終決戦
- 池州刺史韓守威は行密の表薦で湖州に移されたが、湖州は李師悅が守っており杭州刺史銭鏐と交戦が続いていた。蘇・湖・常・潤の各地が乱れる中、宣州を得た行密だったが廬州は蔡儔が孫儒に敗れて降っていた。孫儒は行密を攻め、行密は揚州に再入城し時溥と結んで儒を防いだ。全忠は龐師古に10万の兵を潁から淮を渡らせ行密を助けさせたが高郵で敗れた。行密は退いて宣州に戻り、安仁義に潤州を襲わせ、常州を攻め銭鏐の将杜棱を殺した。儒も劉建鋒に潤・常を奪わせた。帝は杭州を防禦使とし銭鏐に授け、宣州を寧国軍として行密を節度使とした。
- 大順二年(891年)、儒は溧水に布陣し山に沿って砦を築いた。行密は李神福を広徳に置き「兵力差がある時は避けて驕らせよ」との策で退いたが、儒軍は油断し神福が夜襲して破った。儒の将康旺は和州を取ったが行密軍に降り、安景思の滁州も逐われた。李神福は腰山の砦を破って儒の将李弘章を捕らえた。田頵・劉威は儒に敗れたが、行密が銅官を守ろうとした際、神福は「儒は全力で来ており速戦を欲する。堅壁して疲れさせ、糧道を断てば必ず滅びる」と進言し、宣池都遊弈使とされ、やがて儒軍は食糧に窮した。
- 常熟の賊陳可児は儒と行密の争いに乗じて常州に入り自ら制置使を称した。行密は陶雅に潤州を、張訓に揚州を守らせ、楚州刺史を捕らえて軽兵で常州を襲い可児を斬った。
- 孫儒は宣州を5ヶ月囲んだが解けなかった。台濛が魯陽に5つの堰を築いて軽舟で糧を運んだため行密軍は困窮せず、ついに儒を破った。田頵を宣城の守りに残し、揚州へ長駆入城した。7年に及ぶ戦いで8州を平定したが人口の損耗は甚だしく、行密は民を休ませ安んじた。塩茶の専売で民に絹布を課そうとした際、幕僚の高勖は「戦火の後にさらに課税すべきでない。国庫は他所と交易すれば必ず豊かになる」と諫め、行密はこれを採り、吏を選んで治政に努めさせた。
楊行密――淮南の平定と各地への進出
- 蔡儔は廬州を朱全忠に投じ、孫儒の残将張顥を受け入れ、倪章の舒州と結んだ。行密は李神福に儔を攻めさせて破ったが儔は籠城した。張顥は城壁を越えて降伏し、行密は袁積の軍に属させたが、積が処刑を求めたところ行密はその勇を惜しみ親軍に置いた。まもなく儔は自殺した。儔がかつて行密の先祖の墓を暴いていたが、吏が儔の墓の報復を求めても行密は許さなかった。劉威を刺史に表薦し、田頵に歙州を攻めさせた。刺史裴枢は善政で民に慕われ抵抗を続けたが、糧尽きて降伏を望み朝廷への帰還を願い出た。行密は魯郃を代わりに任じようとしたが州人が従わず、寛厚な陶雅に代えて枢を朝廷に丁重に送った。李神福が舒州を落とし刺史とした。
- 乾寧二年(895年)、行密は濠州を襲い、李簡が甲冑のまま水を渡って刺史張遂を捕らえ、劉金にこれを守らせ寿州を取った。汴将劉知俊が石碭に糧を蓄え南下を図ったが、張訓が漣水から海路で襲いその糧を奪い、知俊は敗れて命からがら逃れた。詔により行密は淮南節度副大使・知節度事、検校太傅・同中書門下平章事、弘農郡王に封ぜられた。
- 董昌が銭鏐に攻められ救援を求めたため、行密は台濛に蘇州、安仁義・田頵に杭州を攻めさせ自ら督戦した。別将張崇が鏐に捕らえられ、行密がその妻を嫁がせようとしたが妻は「崇は公を裏切っていない、しばし待たれよ」と答え、まもなく崇は帰り以後行密の厚い信頼を得た。翌年5月、蘇州を落とし鏐の将成及を捕らえて朱瑾に守らせた。
- 朱延壽が蘄・光二州を取り、霍丘に豪傑の朱景を鎮将として置くと、汴将寇彦卿が3千騎で襲ったが景は苦戦の末これを退けた。田頵・魏約・張宣が嘉興を囲んだが鏐の将顧全武の救援で宣・約は捕らえられ頵は敗走した。泰寧節度使朱瑾とその部将侯瓚、太原の李承嗣・史儼・史建章が来奔すると、行密は彼らを疑わず重用し、軍勢は天下随一の強さとなった。
楊行密――帝の詔と朱全忠との攻防
- 帝は武昌節度使杜洪が全忠と結ぶのを憎み、行密を江南諸道行営都統として洪を討たせた。汴将朱友恭・聶金が泗州で張崇と戦い聶金は敗れた。黄州の瞿章は友恭の来襲を聞き武昌柵に退き、行密が馬珣に守らせたが、友恭は険を突破して章の別将を殺し武昌を包囲、瞿章は敗れて斬られた。
- 全忠は葛従周に光州を攻めさせたが、柴再用の部将王稔が偵察中に包囲されても動じず、夕暮れに敵陣を突破して多くの死傷を与え汴兵を退けた。従周は淮を渡って寿州を囲み、龐師古・聶金の7万は清口に布陣。朱延壽が従周軍を破ると、行密は師古を撃つべく李承嗣の献策で密かに清口へ進み淮の上流を堰き止めて師古軍を水攻めにした。張訓の弱兵を囮に師古が油断していたところ、朱瑾・侯瓚が汴の旗を掲げて壁に突入し、行密軍も呼応して師古を斬った。全忠と従周は敗走し寿陽で追撃され、淠水を渡る際に朱瑾に襲われ1万余が溺死、以後大雪で多くの兵が凍死した。潁州刺史王敬蕘が薪を焚いて助けたため生き延びた汴兵は数千人に留まった。まもなく寿州が再び囲まれたが7日で解かれた。
- 馬珣は散卒300を率いて撫州を襲い、鏐の将危全諷の四つの砦を破って糧を奪ったが、慢心して敵の反撃を許し「城を取れなかったのか」と行密に叱責された。
- 光化元年(898年)、秦裴が昆山鎮を取り顧全武がこれを包囲、行密の諸将は敗戦を重ねたが全武は蘇州を包囲し台濛が固守、銭鏐自ら来援した。濛の食糧が尽きると李簡・蒋勛が全武軍を破って濛を救った。後軍が潰え秦裴は降伏を勧められ、鏐は千人分の食事を用意して迎えたが実際に降ったのは百人足らずで「なぜかくも長く抗ったか」と問われ「糧が尽きて死を待つのは私の望むところではなかった」と答えた。かつて成及を捕らえた際、行密はその私室に書画薬品のみを見て行軍司馬に用いようとしたが辞退され、厚く遇して帰した。鏐もまた魏約らを返した。
楊行密――帝を巡る争いと呉王への封
- 全忠が蔡州を攻めると奉国節度使崔洪が救援を求めた。翌年、朱瑾に徐州を攻めさせたが雨で撤退。行密自ら徐州を攻めたが宿州で敗れず解いた。青州の陳漢賓が款を通じたが途中で翻意、王綰・張訓・周本が説得し従わせた。光州が叛くと自ら討ちに行ったが汴将朱友裕の救援で解囲した。全忠は馬殷・成汭・雷満に行密攻撃を呼びかけ、行密は黄・鄂の間に布陣、杜洪が酒と井戸に毒を入れて逃げたが行密は察して入城しなかった。詔により検校太尉・兼侍中に加えられた。
- 天復元年(901年)、銭鏐が殺されたとの誤報を機に李神福は臨安を急襲し、顧全武の八砦を偽退で誘い出して伏兵で挟撃、5千を斬り全武を捕らえた。臨安を囲むと鏐の将秦昶ら3千が降伏したが、神福は鏐の先祖の墓を保護し樵採を禁じ、鏐が感謝の使者を送ると、鏐が死んでいないため落とせぬと判断し犒いを受けて撤退した。
- 翌年、大将劉存が2万・戦艦700で湖南を伐ったが馬殷の伏兵に長磧洲で敗れた。行密は顧全武を鏐に返し、鏐も秦裴を釈放して応じた。
- 帝が鳳翔で困窮した際、左金吾大将軍李儼を宣諭使として遣わし、行密を東面諸道行営都統・検校太師・守中書令、呉王に封じ承制封拝の権を与え危急を告げた。全忠の爵位は削奪され、西川・河東・忠義・幽州・保大・横海・義武・大同の8道に討伐が命じられた。朱瑾は平盧節度使として青・斉を、馮弘鐸は感化節度使として徐・宿を攻め、朱延壽は蔡州を囲み、田頵は銭鏐を防ぎ、行密自ら杜洪・馬殷を討って全忠の勢力を分断する役割を担った。
楊行密――田頵の離反と晩年
- 行密は李神福を鄂岳招討使、劉存を副とし冷業に馬殷を攻めさせた。杜洪はたびたび敗れ籠城し全忠に救援を求め、全忠は韓勍を歩兵1万で灄口に、荊南節度使成汭も全軍で救援した。神福が迎撃して破り、汭は溺死した。冷業は平江に3砦を築いたが馬殷の将許徳勲が夜襲しすべて破り業を捕らえた。杜洪は窮していたが、田頵・安仁義が離反したため神福・存は呼び戻され、洪は勢いを盛り返した。頵の敗死後、台濛が宣州観察使となり、改めて神福・存に鄂州を攻めさせた。順義軍使汪武が頵と結んでいたが、歙州刺史陶雅が鍾伝を攻める途中で武を捕らえた。
- 無錫を守る張可悰は銭鏐軍の夜襲を百騎で撃退したが「まだ一戦を要する」と警戒を続け、鏐軍の再来を伏兵で破った。
- 台濛の死後、行密は子の渥を宣州観察使とした。天祐二年(905年)、王茂章・李徳誠が潤州を落とし安仁義を殺し、王茂章が潤州団練使となった。聶彦章らが馬殷を再度攻め岳州に迫ったが、許徳勲・詹佶が長江で汴軍を撃破、彦章を捕らえ1万人が溺死した。馬殷は彦章を釈放し、徳勲は「呉王に伝えよ、我らがいる限り湖湘は望めぬと」と告げさせた。
楊行密――治政と評価・死
- 行密は寛易で部下をよく遇し、死力を尽くさせた。宴席で剣を負う近侍が刺客に斬りかかられたが未遂に終わり、行密は変わらずその近侍を用い続けた。ある時馬の鞅を断たれる不敬があっても咎めず、人々は恩義を感じた。孫儒の乱で府庫が空になった際、倹約して費えを省き、3年足らずで軍を富ませた。台濛が盛大な供応を用意した際、行密は一夜のうちに去り、繕われた古い衣を残していった。台濛が城を望み王茂章の壮麗な邸宅を見て「天下未定なのに茂章はかくも豪奢に暮らしている、我が身を忘れるつもりか」と語ると、茂章は直ちに邸を質素にした。
- 帝が鳳翔で困窮した際、二度にわたり出兵を督促されたが、宿州まで進んで糧が尽きたと偽って引き返した。全忠が帝を東遷させると行密は恥憤して病に伏し、全忠は帝を弑してさらに人望を絶とうとした。行密はこれを聞いて喪に服し3日政務を停め、病篤くなると将吏を集め後事を託し、後継を問うた。周隠は「宣州の司徒(渥)は移り気で讒言を信じやすく淫酒を好む、賢者を選ぶべき」と答え、宿将で威名のある劉威を推した含みがあったが行密は答えなかった。王茂章を渥に代えて呼び戻そうとしたところ、行密は側近の厳求に「周隠に子を召させたが来ぬ、いかにすべきか」と問うた。かつて渥が宣州にいた頃、押牙徐温・王令謀は「王がご病気で汝が外にいるのは奸人の計略、召状には我々二人以外応じるな」と約していたため、二人の符を得て渥は帰還した。
- 渥は検校太尉・同中書門下平章事・淮南節度使留後を承制で授けられた。行密は渥に「左衙都将の張顥・王茂章・李遇は皆乱を頼みにする者だが、我が子のために除くことはできぬ」と諭して没した。享年54。遺言により葛布の衣・桐板の棺で夜に山中へ葬られ、その場所は知られなかった。諸将は「武忠」と諡した。
楊渥――継承
- 張顥は都統印を宣諭使李儼に返そうとしたが諸将は恐れて何も言えず、渥は涙を流すのみであった。騎軍都尉李濤が「都統印は先帝が父子に賜ったもの、人に授けてよいものか」と諫めると諸将は同意し、顥は不満げに去り、結局李儼に請うて渥は兼侍中・淮南節度副大使・東面諸道行営都統、弘農郡王に承制で任じられた。
- 渥は騎射を好み、許玄膺と刎頸の交わりを結んでいた。嗣位後は事を許玄膺に委ね諸将も逆らえなかった。渥は王茂章の親兵を求めたが得られず、宣州を去る際は帷幕を持ち去ろうとして茂章に罵られ渡されなかった。翌年、5千の兵で茂章を襲うと茂章は杭州に逃れた。秦裴が鍾匡時を捕らえると渥は江西制置使に任じた。朱思・範師従・陳潘は洪州を守る渥の腹心であったが、張顥が渥を制するため陳祐に密かに秦裴の陣中へ入らせ、酒宴で3人の罪を数えて処刑させた。渥は周隠に「かつて私を継嗣不適と言ったのはなぜか」と問い詰め、答えぬ隠を殺した。
史論
- 賛にいう。楊行密は身分卑しく興ったが、志を得てからは仁恕をもって人心をよく統べ、身を慎み節倹に努め大過はなく、賢というべきである。しかし彼の拠った淮・楚の地は士気が猛々しいが剛毅さに欠けた。行密には覇者の器量がなく、天下の兵を率いて先陣に立ち王室を興すことができなかった。朱全忠が天子を挟んで東遷させるのを見ながらなすすべなく、志を遂げられぬまま憤死したのは痛惜すべきことである。
時溥――出自と黄巣討伐
- 時溥は徐州彭城の人、州の牙将であった。黄巣が京師を乱すと節度使支詳は時溥・陳璠に5千の兵で西討させたが、河陰で軍が乱れ民を掠奪した。時溥はこれを鎮めて境上に引き返したが帰還を躊躇った。詳が酒食で軍をねぎらい罪を許すと約したため軍は戻り、時溥は留後に推され詳を客館に追いやった。時溥は詳に多くの荷を持たせ陳璠に護送させたが、璠は七里亭で詳を殺しその一族を屠った。怒った時溥は璠を宿州刺史に任じたのちすぐに殺した。別将に精兵3千を率いて関に入らせ、僖宗はこれにより武寧節度使を命じた。
- 黄巣が敗れて東走し陳州を囲み溵水に布陣すると、淮西の秦宗権と結んだ。時溥は賊と隣接する地にあり全軍で討伐にあたり連戦して勝ち、東面兵馬都統を授かった。許・兗・鄆の兵と合流し太康で尚讓を敗走させ数万を斬り、讓は1万の部下とともに降伏した。将の李師悅は萊蕪まで黄巢を追撃して大破し、諸将が巢の首を争う中、林言がこれを斬って時溥に献じ、時溥から天子に届けられたため、賊平定の功は時溥が第一とされた。検校司徒・同中書門下平章事に加えられ、さらに検校太尉・兼中書令・鉅鹿郡王に進んだ。秦宗権が兵を構えると蔡州行営兵馬都統を拝命した。
時溥――朱全忠との抗争と滅亡
- 賊平定後、時溥は朱全忠と功を争い確執が深まった。孫儒が楊行密と揚州を争っていた際、朝廷は全忠を淮南節度使としてこれを平定させようとした。時溥は自らが先に挙兵し功名も朝廷に知られ都統の位にあったのに、全忠がその地位を得たことを恨んだ。全忠が司馬李璠・郭言らを東へ送る際、道が宿州を通るため道を借りたいと書を送ったが、時溥は拒み、その隙を突いて襲った。郭言は力戦して撃退した。全忠は恨みを募らせ、以後連年徐・泗を侵し、自ら郊まで攻めたが功を得ず退いた。時溥は窮して李克用に援軍を求め、克用は碭山を攻めさせたが朱友裕の救援でともに大将を失った。友裕は宿州を攻めたが落とせなかった(大順元年、890年)。
- 翌年、丁会が汴水を堰き止め宿郛を水攻めにし3ヶ月で落とし、劉瓚に守らせた。時溥の部将劉知俊は2千の兵を率いて全忠に降り、時溥の軍はますます振るわなくなった。民は農作もままならず大水と飢饉が重なり、死者は十のうち七を超えた。時溥は全忠に和を請い、全忠は地を移すことを条件に兵を退いた。昭宗は宰相劉崇望を後任としたが、時溥は徐州を去れば殺されると恐れ命に従わず、軍中も留任を望んだため詔で留任が許された。泗州刺史張諫は時溥が代わられると聞き全忠への帰順と質子の提出を上表したが、時溥の留任が決まると諫は恐れ、全忠が鄭州刺史へ移す上表をしても両者の怨みを恐れ楊行密に逃れた。行密は諫を楚州刺史とし民を移して泗州に兵を置いた。
- 朱友裕が時溥を攻めたが籠城が続いた。「出兵の日取りが不吉だったため功がない」との讒言に、全忠が参謀徐璠を派遣し責めると、友裕は「時溥は困窮しているのに妖言に惑わされ士気が落ちている」と書を焼いて糧を督促し猛攻を加え、部将徐汶が降伏した。時溥は朱瑾に救援を求めた。全忠は自ら曹州に布陣していたが撤退時に精騎数千を霍存に授け「急を要すれば昼夜兼行で駆けよ」と命じた。瑾の2万と時溥軍が合流して友裕を攻め、霍存が力戦したが戦死、瑾・時溥は撤退した。翌日再戦して霍存軍も敗れ、友裕を追い詰めたが友裕は籠城を守り抜き、瑾は糧が尽きて兗州に戻った。全忠は龐師古を友裕に代え、時溥は兵を分けて石仏山を固めたが師古がこれを落とした。以後は籠城のまま戦えず、王重師・牛存節らが城壁を梯で越えて侵入、時溥は金玉と妻子を連れて燕子楼に上り自ら焼死した(景福二年、893年)。全忠はその地を得て私に守将を置いた。
朱宣・朱瑾――出自と天平節度使就任
- 朱宣は宋州下邑の人。父は郷里で豪猾として知られ塩の密売の罪で死罪となった。宣は青州に逃れ王敬武の牙軍となった。黄巣の乱の際、敬武は将の曹存実に西進させ、宣は軍候として鄆州を経た。当時、節度使薛崇は王仙芝と戦って戦死し、将の崔君裕が州事を代行していたが、存実は兵の少なさを見て裕を襲い殺しその地を得て留後を称した。功の多かった宣は濮州刺史として帳下の兵を総べることを任された。
- 中和初年、魏博の韓簡が曹・鄆を狙って渡河すると曹存実は迎え撃って戦死、宣は残兵を集め籠城した。簡は6ヶ月囲んだが落とせず退いた。僖宗はその守りを賞し天平節度使に任じ同中書門下平章事に累進させた。宣は3万の兵を有し、弟の朱瑾は三軍随一の勇者で天下を争う心を密かに抱いていた。瑾は残虐を好み、光啟中、兗州節度使斉克譲に婚を求めて親迎と称し兵を潜ませて克譲を追い、府を奪って留後を自称、天子はやむを得ず節を授けた。兄弟は山東で雄を張った。秦宗権が全軍で朱全忠を攻め秦賢が36の砦を構えて自ら督戦した際、全忠は恐れて宣に救援を求め、宣・瑾は自ら軍を率いて宗権を撃退した。
朱宣・朱瑾――朱全忠との対立と滅亡
- 全忠は宣に厚意を示し兄事したが内心その勢力を恐れ、対立の口実を作ろうと宣が汴の亡命者を匿っていると讒言した。宣は全忠への恩に免じてこれを憤って抗議の書を返したため、全忠は公然と隙を結び、朱珍に瑾を先に攻めさせ曹州を取り乗氏に布陣した。宣は曹州救援に失敗し範県に逃れた。朱珍が濮州を囲むと宣は弟の朱罕に濮州救援を命じたが、全忠自ら罕を斬って濮州を落とし、宣は鄆州に逃れた。全忠は珍に鄆州を攻めさせたが宣は出戦せず、朱裕(全忠配下)が偽りの降伏書で珍を誘い込み、夜に数千の兵で城壁に迫らせ、裕が門を開くと汴軍が突入したところで縣門を落とし数千を殺し、石を投げて未入城の兵も殺し裨将百余人を斬った。さらに曹州も取り返され郭詞を刺史としたが、大将郭銖が詞を斬って全忠に降った。瑾は汴を襲おうと謀ったが全忠が先に瑾を攻め、瑾は単父を掠奪し丁会と転戦したが利あらず退いた。
- 景福初年(892年)、全忠は再び宣を伐ち、従子朱友裕を先鋒とした。衛南で宣は友裕軍を夜襲して破り陣を奪ったが、全忠は気づかず糧を運び入れて発覚、瓠河へ逃れて友裕とはぐれた。宣は濮州に留まり、全忠は友裕に鄆州の虚実を探らせ自ら北進した。宣が引き返して戦うと全忠は南へ敗走し、堀を渡って辛くも脱出、多くの大将を失った。以後全忠は持久策を取り、毎年一、二度領土を荒らして糧を奪い織工を捕らえるなど締め付けを強めた。宣は賀瓌に濮州を守らせたが友裕に攻められ城を捨てて逃げた。友裕は徐州を攻め、時溥が宣に援軍を求めたが敗れて時溥は滅亡した。全忠は龐師古に済州を攻めさせ、宣・瑾は兵を送って長く抵抗した。乾寧元年(894年)、全忠自ら清河に迫り布陣、宣・瑾が兵を三分して出撃、東阿で全忠を迎え撃った。南風が強く汴軍は不利だったが風向きが変わり全忠は火を放って熛煙が天を覆うほどとなり、宣らは大敗した。夏、全忠は曹州の南に布陣、宣は薄戦しその将3人を捕らえたが、全忠は撤退した。
- 翌年、全忠は朱友恭に兗州を攻めさせたが瑾は堅く守り塹を掘った。宣が瑾に兵糧を送ったが友恭がこれを奪い、全忠自ら単父に布陣。宣が李克用に救援を求めると友恭は曹南に退いた。数ヶ月後、全忠自ら宣を討ち麦を刈り取り、克用の将李承嗣らを破って撤退。宣は追撃し曹州を大いに掠奪した。秋、全忠は再び鄆州を攻め梁山に布陣、宣・克用が挑戦すると全忠は伏兵で破り数千を斬って南へ退いた。克用は追撃し柏和に至ったが厳寒で全忠軍は多くの凍死者を出した。1ヶ月足らずで再び兗州を囲み龔丘を略奪、賀瓌が全忠の輜重を奇襲しようとしたが間に合わず鉅野の東で交戦し大敗して捕らえられ、全軍が壊滅した。軍が大きな窪地にいた際、暴風が起きると全忠は「これは殺し損ねた者がいるのでは」と軍中を捜索し数千人を斬ると風が止んだといい、瓌を城下に晒した。
- 瑾の兄朱瓊は斉州を守っていたが勢い尽きて全忠に州を献じ同姓のよしみを結んだ。全忠はこれを許し軽騎で軍に赴かせ、瑾を招くよう命じた。瑾は歓談の様子を装い、将胡規に偽りの降伏を届けさせ瓊自身に符節を持たせようとし、油断していた全忠の隙を突いて瓊が単騎で到着すると橋下の壮士が瓊を捕らえ斬首して城下に晒した。汴軍は大いに震撼し全忠は数日後にようやく退いた。
- 乾寧三年(896年)、克用の将李瑭が莘に布陣して宣を救援しようとしたが羅弘信に破られた。全忠は宣を追い詰められると見て龐師古に討伐させ、宣は馬頬河で敗れた。師古が鄆州の西門に迫ったが城は出戦しなかった。
- 全忠の宣攻撃は10度に及び、うち4度は全忠側が敗れたが、宣の有能な将は尽き内部も動揺した。全忠に敵し得ないと悟った宣は城壁を高くし堀を深くして守りを固めた。翌年、葛従周が密かに堀に舟を造らせ、兵が乗り越えて城に入り、宣は逃亡したが民に捕らえられ全忠に献じられて斬られ、その妻は全忠に奪われた。全忠は龐師古に兗州を攻めさせ、2月、糧が尽きた瑾は自ら糧秣調達に出て豊・沛間を掠奪していた間に、子の朱用貞と大将康懷英らが城を挙げて降伏した。瑾は麾下を率いて沂州へ逃れたが刺史尹懷賓に拒まれ、海州に赴くと刺史朱用芝が瑾とともに楊行密の下へ逃れた。行密は高郵で瑾を迎え、玉帯を解いて贈り徐州節度使に表薦し兵を与えた。龐師古・葛従周が7万で行密を討った際、瑾は清口で師古を撃破し斬り、従周は淠水を渡る際に瑾に追撃されて溺死者が続出した。瑾は以後行密に忠実に仕えた。
孫儒――出自と秦宗権配下での台頭
- 孫儒は河南河南の人。俊敏で横暴な性格から忠武軍の裨校となり劉建鋒と親しかった。黄巢の乱で秦宗権の配下となり都将となった。光啟初年、宗権は儒に東都を攻めさせ、留守の李罕之は逃亡、儒は宮闕を焼き居民を屠った。河陽節度使諸葛爽と洛水で戦い爽は敗れ、儒は鄭州を包囲。朱全忠が中牟に布陣して救援したが前進できなかった。儒軍は夜に城に登り刺史李璠は逃走、儒は河橋を落とし河陽を取り、留後の諸葛仲方は逃れた。全忠は河陰に布陣し儒は汴の地を掠奪、全忠が退いて胙城の東南に偽の旗鼓を並べて欺くと儒は退いた。
- 全忠と秦宗権が戦い宗権が敗走すると、儒はこれを聞いて孟州の民を殺し屍を河に流し邑を焼いて去った。宗権は再び儒に淮南を掠奪させ、高駢の乱に乗じて濠州に駐屯させた。楊行密が揚州を得ると、宗権は弟の秦宗衡に淮南を争わせ儒を副将、劉建鋒を先鋒とした。儒は常々「男子たるもの万里を戦い賞罰を自ら決すべきで、人の下にいて富貴も廟食も得られぬのは無念だ」と語っていた。まもなく汴軍が蔡州を攻め宗権が儒を呼び戻したが儒は仮病で応じず、宗衡が督促すると、儒は帳下を大いに集めて酒宴の中で宗衡を斬りその軍を併合した。劉建鋒・許徳勲らと盟を結び、騎兵7千を得て周辺の州を平定、数万の兵となり「土団白条軍」と号した。
孫儒――淮南争奪と滅亡
- 文徳元年(888年)、儒は揚州を破り自ら淮南節度使を称し時溥と結んだ。かつて全忠が儒を招く書を送っていたため、儒は汴に款を通じ秦宗衡・秦彦・畢師鐸の首を送り、全忠がこれを朝廷に報じたため、昭宗は儒を検校司空とし全忠は招討副使に署任した。
- 龍紀初年、儒は全軍で宣州を攻めたが、その隙に行密が淮南を取ったため儒は引き返した。行密は敗れ、潤・常・蘇の3州を得たに過ぎなかったが兵力は増し、劉建鋒に潤・常を守らせた。全忠は行密と組んで儒を討とうとした。儒は江南平定の後に天下を争うつもりだったが全忠の背後急襲を恐れ、卑辞と賄賂で結び、全忠が朝廷に薦めて淮南節度使を授かった。
- 大順元年(890年)、行密は潤州を取り安仁義に守らせ、常州を李友に守らせた。怒った儒は軍を三分して江を渡り、劉建鋒が再び常・潤を落とし仁義は敗走した。全忠は龐従らの10万を高郵に急派し、儒は全軍でこれに応じたため、その隙に仁義は潤州を、劉威・田頵らは武進で建鋒を破って常州を取った。杭州の銭鏐将沈粲は儒に投じ、行密の諸将は潤・常から建鋒に追われ、仁義・頵も潤州を捨てて逃れた。
- 翌年、儒は京口から転戦し建鋒も従わせた。行密の諸将は儒の来襲を聞いて逃げ、頵・威らは3万で黄池に儒を迎え撃ったが、儒は馬殷に撃退させた。儒は広徳に布陣し勝ちに乗じて東渓に迫り、淮の民は大いに恐れた。行密は台濛を西渓に置き自ら迎え撃ったが儒軍に幾重にも包囲され、黒雲将李簡が騎兵で突撃してようやく行密は脱出した。儒は宣州を包囲し行密は銭鏐に救援を求めた。折りしも渓の水が氾濫し広徳・黄池の諸砦は水没、儒は兵を分けて和・滁二州を取った。
- その秋、儒は揚州を焼いて西進、遠近に檄を伝え50万と号し旗が数百里に連なり、通過する所ではことごとく家屋を焼き老弱を殺して兵糧に充てた。行密は恐れて逃亡を考えたが、戴規が「儒軍は敗戦続きの末に地を捨てて来ており死力を尽くす覚悟だ。我が降兵を偽って揚州に潜入させ家族の無事を伝えれば、皆帰心を抱き戦わずして降せる」と献策した。行密は親将を送って儒の営から糧数十万斛を奪い飢民に施した。儒は広徳に布陣したが陶雅の騎兵に前鋒を破られ厳公台に籠った。12月、頵・威と儒は決戦し儒軍は大敗、儒はさらに西へ退き、行密は陶雅に潤州を守らせて退路を断った。
- 景福元年(892年)、儒は再び宣州を囲み陵陽に布陣した。行密は不利で逃亡を考えたが、獄中にあった劉威が「儒は倉を焼き砦を壊してきており、糧が尽きれば我らに捕らわれる。精兵で城を背に守ればよい」と献策、李神福も糧道遮断を進言した。行密は広徳を攻め兵糧補給路を断った。この頃、軍中に疫病が流行し儒も瘧にかかったが、劉建鋒・許徳勲を諸県の掠奪に送った。行密は城内の守兵が少ないのに乗じ、早朝に安仁義・田頵と背水の陣で決戦し50の砦を破った。折しも暴雨で暗くなり、儒軍は大敗、儒自身も病が重く動けなかった。田頵が儒を捕らえて行密に献じ、諸将は皆降伏した。儒は市で処刑される際、劉威に「お前の謀に嵌められた」と言った。かつて儒は鏡を手に「この頭はいずれ京師に届けられよう」と語っていたが、その通りに首は京師に伝えられた。劉建鋒・許徳勲はこれを悼み「公にはかねて廟食(祭祀)の志があった、我らが地を得たら廟を建てて報いよう」と語り合い、後に許徳勲が湖南を得ると儒に司徒・楽安郡王を贈り廟を建てて祀った。