遷都論と不遇な晩年
- 朱朴、襄州襄陽の人。三史(史記・漢書・後漢書)に通じたことで挙げられ、荊門令から京兆府司録参軍に進み、著作郎に改められた。乾寧初年、太府少卿の李元実が中外の九品以上の官の二ヶ月分の俸給を軍興の助けに徴収しようとした際、朴は上疏してこれに反対し中止させた。
- 国子『毛詩』博士に抜擢された。上書して当世の事を論じ、遷都について「古の王者はその居所を固定せず、皆天地の興衰を観察して時に応じて事を処してきました。関中は隋朝の都であり、我が朝はこれを受け継いで凡そ三百年、文物・資貨、奢侈・僭偽のいずれも極まっています。広明の乱で巨盗(黄巣)が宮闕を陥落させ、諸官署・帑蔵・里坊・市場は残るところわずか十分の二、石門・華陰への行幸のたびにその十分の二もさらに十分の八九が失われ、高祖・太宗の制度は跡形もありません。襄州・鄧州の西は、平地が数百里広がり、東には漢水と鳳林山が関を成し、南には菊潭が屈曲して漢水に流れ込み、西には上洛の重なる山の険があり、北には白崖山が連なる、まさに地の利に恵まれ、肥沃な地です。もし漕運の水路を広く整えれば、天下の財を集めることができます。古来、中興の君は既に衰えた地を離れ、まだ王でなかった地から王となってきました。今の南陽は、漢の光武帝がここで挙兵したものの、まだ王ではなかった地です。私が見るに、山河が壮麗な地の多くは、既に盛んな古都であるがゆえに衰えており、再興は難しいものです。江南は土地が薄く水が浅く、人心が浮薄で軽々しく、都とすべきではありません。河北は土地が厚く水が深く、人心が強情で頑なであり、都とすべきではありません。ただ襄州・鄧州こそがまことの中原であり、人心は質朴で良く、秦(長安)からも指呼の間にあり、しかも上洛がその境界となり、永く夷狄の侵略の憂いがありません、これこそ建都に最も適した地です」と述べたが、返答はなかった。
- 朴は木訥で剛直な人柄であり、他に特に取り柄はなかった。この頃、天子は政を失い、抜擢した特異な人物によって中興を成そうと考えていた。朴と親しい方士の許巌士が寵愛を得て禁中に出入りしており、朴に経世の才があると語り、また水部郎中の何迎もその賢を上表したため、帝は召して語り、左諫議大夫・同中書門下平章事に抜擢した。もとより名声のない人物であったため、人々は皆大いに驚いた。まもなく戸部を判じ、中書侍郎に進んだ。帝は軍備を強めようとし、事あるごとに一切を朴に委ねた。朴は檄文を四方に発し、近い地には甲士を出させ食料を援助させ、遠い地には余剰分を上納させた。数ヶ月後、許巌士が韓建に殺されると、朴は秘書監に罷められ、三度貶されて郴州司戸参軍となり、没した。朴と共に宰相であったのが孫偓である。
附伝――孫偓
- 孫偓、字は龍光。父の孫景商は天平軍節度使であった。偓は進士に及第し、顕官を歴任し、戸部侍郎で同中書門下平章事となり、門下省に遷り、鳳翔四面行営都統となった。まもなく礼部尚書・行営節度諸軍都統招討処置等使を兼ねた。当初、家の邸の堂の柱から槐の枝が生じ、一年で茂ったが、まもなく偓が政権を執り、楽安県侯に封じられた。朴と共に衡州司馬に貶され、没した。
- 偓は性格が飾らず率直で、常に「士たる者、もし行いが正しければ、自分の長所で他人の短所を際立たせたり、自分の清廉さで他人の汚れを目立たせたりする必要はない」と語った。客を迎えるたびに、奴僕や童子が互いに罵り合い言い争って倒れることがあっても咎めず、「もし怒りの心を持てば、それは自ら乱れるだけだ」と言った。
偓の兄の孫儲
- 兄の孫儲は天雄節度使を歴任し、兵部尚書で終わった。