新唐書卷一百八十三 列傳第一百八 劉鄴

李徳裕への恩義と最期

  • 劉鄴、字は漢藩、潤州句容の人。父の劉三復は文章に優れ名を知られた。幼くして父を失い、母は病で身体が不自由であったため、三復は穀物を乞うて養った。李徳裕が浙西観察使であった時、その文才を高く評価し掌書記に表挙した。徳裕は三度浙西・剣南・淮南を治め、三復はいずれも従わないことがなかった。会昌年間、徳裕が宰相となると三復は刑部侍郎・弘文館学士に抜擢された。
  • 鄴は六、七歳で文を作ることができ、徳裕はこれを可愛がり、自らの子と共に学ばせた。徳裕が斥けられると鄴は頼るところがなく、江湖を放浪した。陝虢の高元裕が推官に表挙し、高少逸もまた鎮国の幕府に招いた。咸通初年、左拾遺に抜擢され、翰林学士として召され、進士の身分を賜った。中書舎人を歴任し、承旨に遷った。鄴は徳裕が朋党の罪を着せられ冤罪のまま海南で死んだことを痛惜し、令狐綯が久しく政権を握りたびたび赦令が出ても徳裕の官爵を復されなかった。懿宗が即位して令狐綯が退くと、鄴はその冤罪を訴え、官爵を回復させた。世はその義を高く評価した。戸部侍郎・諸道塩鉄転運使に進み、礼部尚書で同中書門下平章事となり度支を判じた。僖宗の即位後、再び尚書左仆射に遷った。
  • 当初、韋保衡・路巖は鄴と共に政権を執り、親密な間柄であった。まもなく蕭仿・崔彦昭が宰相となると、鄴は罷められ淮南節度使・同平章事となった。黄巣の勢いが盛んになると、詔により高駢がこれに代わり、鄴は鳳翔節度使に転じたが固辞し、左仆射に戻った。帝が西に出奔した際、鄴は行在に追いつくことができず、崔沆・豆盧瑑と共に将軍の張直方の家に匿われたが、賊の捕縛が厳しく、三人は臣従を肯んじず、共に殺された。
  • 豆盧瑑、字は希真、河南の人。翰林学士・戸部侍郎を歴任し、崔沆と共に同中書門下平章事を拝した。この日、廷でこれが宣告されると、大風と雷雨が木を引き抜いた。まもなく禍に遭った。当初、咸通中に暦法を治める者で禍福をよく言い当てる者がいた。ある人が「近頃の宰相は多く四、五年に及ばないというが、どういうことか」と問うと、「紫微(星の名、宰相を表す)にちょうど災いがある、その人物もまた免れないだろう」と答えた。のちに楊収・韋保衡・路巖・盧携・劉鄴・於琮・(畢)瑑と崔沆は、いずれも天寿を全うできなかったという。