新唐書卷一百八十三 列傳第一百八 陸扆

昭宗の信任と非業の死

  • 陸扆、字は祥文、宰相陸贄の族孫。陝州に寓居し、そのまま陝の人となった。光啓二年、僖宗の山南行幸に従い、進士に及第し、翰林学士・中書舎人に累進した。扆は文を作るのが敏速で、まるで射当てるように速く、当時の詔命では同僚が自らこれに及ばぬと思うほどで、昭宗は特に厚遇した。帝がかつて賦を作り学士皆に和すよう詔した際、独り扆が最も早く仕上げた。帝はこれを見て「貞元の頃、陸贄・呉通玄兄弟が内廷の文書に優れていたが、以後に継ぐ者はいなかった、今、朕はそれを得た」と嘆じた。当初、進士に挙げられた際、ちょうど帝が遷幸する中で、六月に及第者名簿が発表された。その後、酷暑のたびに他の学士たちは「これは名簿(榜)を作る天候だ」と戯れ、扆が時を得ずに進んだことを冷やかしたという。尚書左丞に累進し、嘉興県男に封じられた。戸部侍郎・同中書門下平章事に転じた。旧例では、三省から宰相となった者は光署銭(祝儀)を得て宴の資に留めることになっていたが、翰林学士院にはこれまでこの慣例がなかった。扆は光院銭五十万を送り、近侍の職を栄誉あるものとした。中書侍郎に進み、戸部を判じた。
  • 嗣覃王が兵を発して鳳翔を討とうとした際、扆は「国はまだようやく安定しつつある段階で、近隣の藩鎮に兵を加えるべきではありません、必ず他の賊に乗じられ、益するところがありません。まして親王が軍事に関われば、必ず後の禍を招きます」と諫めたが、帝は軍を興すことに気を取られ、扆が策を阻んでいると責め、峡州刺史に貶した。案の定、軍は敗れた。久しくして工部尚書を授けられた。天子が華州から帰還するのに従い、兵部尚書として再び国政を担い、呉郡公に封じられた。
  • 天復初年、帝は密かに韓偓に「陸扆と裴贄はどちらが私に忠実か」と尋ねた。偓は「扆らは皆宰相です、他心などありましょうか」と答えた。帝は「外では扆が私の復位を喜ばず、元日に服を替えて啓夏門から逃げようとしたと言われている、本当か」と言った。偓は「誰がそのようなことを陛下に申したのですか」と問うと、帝は「崔胤と令狐渙だ」と答えた。偓は「たとえ扆がそうであったとしても、責めるには及びません。まして陛下が復位された際、扆はもとより謀を知らされておらず、突然兵乱が起きたと聞いて逃げようとしただけです。陛下が難に殉じなかったことを責めるのならまだしも、喜ばなかったと決めつけるのは、讒言にすぎません」と答えた。帝はついに悟った。累ねて戸部尚書を兼ねた。
  • 帝が鳳翔から戻ると天下に大赦を行い、諸道にはいずれも詔を賜ったが、李茂貞だけは除かれた。扆は「国の西で、鳳翔は最も近い、その罪状からすればもとより赦すことはできません。しかし今なお職貢を修めており、朝廷はまだこれを絶っていない以上、詔書で他と異にする扱いをするべきではありません」と述べた。当初、崔胤が宰相を罷められると扆がこれに代わった。胤は内心これを恨みに思い、この時に至って扆が密かに党派を組んでいると議論した際、沂王傅に貶されて東都に分司させられた。胤が死ぬと再び吏部尚書を授けられ、洛陽遷都に従った。柳璨が朱全忠に付き従い始め、朝廷の名望ある士大夫を除こうと謀った際、扆は濮州司戸参軍に貶され、白馬駅で殺された。享年五十九。扆は初め名を允迪といい、のちに改めたという。