剛直な諫言と家系
- 高元裕、字は景圭。その先祖は渤海の人という。進士に及第し、たびたび節度府に招かれた。右補闕として召される道中、商州で方士の趙帰真が駅馬を専断していたのに出会い、元裕は「天子が駅を置くのは、お前が疾駆するためではない」と詰り、左右に命じて馬を奪わせ、帰京してその一部始終を奏上した。
- 敬宗が朝を不時に開き、事を禁中で決することが多く、宦官が放埓を極め、大臣が拝謁できずにいた際、元裕は「今、西頭(宦官)の勢力は南衙(朝廷)を凌ぎ、枢密の権は宰相を超えています」と諫めた。帝はやや悟ったが制御することはできず、人々は皆彼を危惧した。まもなく侍御史内供奉に転じ、士人は互いに祝った。
- 李宗閔がその節義を高く評価し、諫議大夫に抜擢し、中書舎人に進めた。鄭注が翰林に入った際、元裕がその任命の文書を書くにあたり「医術を以て侍る」と記したため、注は恥じ恨んだ。宗閔が罪を得ると元裕も餞別に出たことに連座し、閬州刺史に貶された。注が死ぬと再び諫議大夫・翰林侍講学士に任じられた。
- 荘恪太子が立てられると、輔導すべき人物として選ばれ賓客を兼ねた。御史中丞に進んだ。「紀綱の地(監察部門)の官属は選ぶ必要があり、職に称わぬ者は罷めるべきだ」と建言し、監察御史の杜宣猷・柳瑰・崔郢、侍御史の魏中庸・高弘簡が併せて職を奪われた。
- 故事では三司監院官で御史を帯びる者を「外台」と呼び、風俗を察して不法を挙げることができた。元和中、李夷簡はこれによって本道の州県を按察するよう請うたが、後に次第に職務が果たされなくなった。元裕は監院御史を本台に隷属させ、専ら督察できるようにするよう請い、詔により許された。尚書左丞に累擢され、吏部の銓選を領した。宣歙観察使として出て、入朝して吏部尚書を授かった。山南東道節度使を拝し、渤海郡公に封ぜられ、逋賦を大いに免じるよう上奏した。鎮に五年在任し、再び吏部尚書として召され、道中で没した。七十六歳。尚書右僕射を追贈された。
- 元裕は勤勉倹約で経術に通じ、吏務に敏く、堂々とした風采で当時に重んじられた。侍講から中丞になった際、文宗はその後任を得難く思っていたが、元裕は兄の少逸が才能あることを表言し、これによって命じられ、世はその出世を栄誉とした。
- 少逸、長慶末年に侍御史となったが、弾劾に失敗して贊善大夫に貶され、諫議大夫に累遷して元裕の後任となった。次第に給事中に進み、陝虢観察使として出た。宦官が峡石の駅吏を餅の出来が悪いと責めて鞭打った際、少逸はその餅を封じて上奏した。宣宗は怒り、使者を召して「山谷の間でこのような餅を簡単に用意できようか」と責めた。使者は恭陵に流され、宦官は皆手を引っ込めた。兵部尚書で致仕し、没した。
- 元裕は初め名を允中といったが、太和中に今の名に改めた。
- 元裕の子の璩、字は瑩之。進士に及第し、たびたび使府に仕えた。左拾遺から翰林学士となり、諫議大夫に抜擢された。近年の学士で省郎から一足飛びに官を進めた者は鄭顥(帝の女婿として)を除けば璩のみで、寵愛によって昇進した。懿宗の時、剣南東川節度使を拝し、中書侍郎・同中書門下平章事として召された。一月余りで没し、司空を追贈された。太常博士の曹鄴は「璩は宰相であったが交遊は雑駁で、多く邪径によったものであり、謚法に『思わず妄りに愛するを刺という』とあるので、刺と謚すべきだ」と建言し、これに従った。