楊嗣復
- 字は継之。父の於陵は浙西観察使韓滉に見出され娘を娶り、「後貴且寿の人物」と評された。嗣復誕生後、滉は「名も位も父を超える楊氏の慶事」と字を慶門とした。8歳で文章に優れ、進士・博学宏辞に及第、裴度・柳公綽と共に武元衡に見出され劍南幕府に招かれた。右拾遺、太常博士、禮部員外郎を歴任。
- 牛僧孺・李宗閔と親しく引き立てられたが父と同時に執政するのを避け権知禮部侍郎として2期で68人の士を輩出、多くが顕官となった。戸部侍郎、劍南東川・西川節度使を経て開成初、戸部侍郎・鹽鐵転運使、同中書門下平章事、弘農県伯。
- 延英殿での議論で鄭覃との対立(陸洿の登用、朋党論議)が頻発。「陛下が党人と言うものはもう尽きたのでは」との帝の言に覃が「楊漢公・張又新・李続がまだいる」と応じるなど、朝廷内の党派対立が続いた。符讖の信憑性や天后時代の人材登用を巡る帝との議論にも参加。延英対話の記録制度化を提言。
- 帝の「開成初は善政、3年後は劣る」との発言を巡り覃と嗣復が互いに責任を認め合う場面、覃・夷行の罷免と嗣復の専権掌握に至る経緯があった。使府の官員削減など行政改革も進言。門下侍郎に進む。
- 文宗崩御時、宦官仇士良が遺詔を廃し武宗を擁立、嗣復は吏部尚書に降格され湖南観察使に出された。薛季稜・劉弘逸の誅殺に連座し、武宗が中使を分遣して嗣復らの誅殺を命じかけたが、李徳裕らが「大臣は明白な悪状なくして誅殺すべきでない」と諫め、帝も感情を吐露しつつ最終的に赦し潮州刺史に減じた。
- 宣宗即位で江州刺史、吏部尚書召還の途上、岳州で没した。享年66、贈尚書左僕射、諡は孝穆。貢挙の際、父於陵が門生を率いて出迎える栄光の逸話も残る。
楊授――嗣復の子
- 字は得符。兄弟中最も賢明とされた。進士から戸部侍郎、母の病により秘書監、後に刑部尚書として昭宗の華州避難に従い太子少保で没した。贈尚書左僕射。
楊煚――嗣復の子
- 字は公隠、左拾遺から昭宗初に宴遊を諫める上疏を行った。戸部員外郎を経て、崔胤が朱全忠を京師に招いた際、一族を率いて湖南に避難した。諫議大夫で終わった。
楊損――嗣復の子
- 字は子默。蔭補で藍田尉から殿中侍御史。新昌里の邸宅が宰相路岩の第と隣接し、岩が拡張のため損の邸を求めた際、一族の勧めにもかかわらず「先祖伝来の土地を権臣に譲る理由はない、窮達は天命だ」と拒んだ。岩は不興を示し損を黔中の獄事に派遣したが、絳州刺史を経て岩失脚後に給事に召還、京兆尹。宰相盧携との不和で再び給事中に。陝虢の軍乱(観察使崔蕘追放)を鎮圧し平盧・天平節度使を歴任、任地で没した。
史論
- 口先で先王の言葉を語りながら市井の人のように振る舞う者を「盗儒」という。牛僧孺・李宗閔は正しい方正な言論で登用されながら、執政すると私党のために憎む者を排撃した。まさに世が「牛李」と呼んだのは盗儒に他ならない。李逢吉の陰険さ、元稹の浮薄さ、楊嗣復の弁舌の巧みさは、いずれも取り立てて論じるに値しない。幸いにも主君が凡庸で誅殺には至らなかったが、治世にとっては罪人と言うべきであろう。