李逢吉
- 字は虛舟、隴西の家系。父の顏は持病があり、逢吉は自ら医薬を学んで方書に通じた。明経に及第後、進士にも及第。範希朝の振武掌書記として徳宗に推薦され左拾遺。元和時、給事中、皇太子侍読、中書舎人、知禮部貢挙を経て門下侍郎・同中書門下平章事。
- 性は忌み深く陰険で、地位を得ると好悪で人事を左右した。裴度の淮西討伐に成功されては困ると密かに妨害を図り、和議派を煽動したことが憲宗に知られ劍南東川節度使に出された。
- 穆宗即位で山南東道に転じ、講侍の縁で近幸に取り入った。長慶2年(822年)、兵部尚書として召還。裴度と元稹の対立に乗じ、「和王傅于方が稹の依頼で度暗殺を謀った」との讒言を仕組み両者を失脚させ、門下侍郎・平章事に。李紳・韋処厚らの度への同情の声で度は一時留任するも、河朔(王智興・李の反乱)の混乱で世論の非難を浴び、結局度は外遷された。反乱平定後、尚書右僕射。
- 帝の急病時、宦官梁守謙・劉弘規・王守澄と結んで景王(後の敬宗)の太子擁立を主導。鄭注を通じ王守澄と結び、専横を極めた。張又新・李続・張権輿・劉棲楚・李虞・程昔範・薑洽・訓(甥)の8人と、さらに追随者8人が要職を占め「八関十六子」と呼ばれ、賄賂の窓口として機能した。涼国公に封ぜられた。
- 敬宗即位で裴度の入朝を妨げようとし、張権輿の讖言工作にも関わったが韋処厚の弁護で失敗。武昭という豪胆な人物を巡る事件(逢吉と対立する李程一派との軋轢から、逢吉の腹心が武昭に誣告させ処刑に追い込んだ冤罪事件)で逢吉の陰謀が世に露見した。
- 度の入朝阻止が失敗し帝の信任が度に戻ると、逢吉は検校司空・平章事として山南東道節度使に出された。腹心田伾の不正が発覚し縁者も処罰され、宣武節度使、東都留守を経て李訓の登用時に尚書左僕射に召還されるが病で朝見できず司徒致仕。享年78で没し、贈太尉、諡は成。子なく従弟の子植を嗣とした。