烏重胤
- 字は保君、河東将承比の子。潞州の牙将・左司馬。節度使盧從史が王承宗討伐を装いつつ密通していたのを吐突承璀に密告し、從史の捕縛に貢献。憲宗はその功を評価し河陽節度使・張掖郡公。
- 淮西討伐で李光顏と連携し3年で蔡州を平定、検校司空、邠国公。橫海軍節度使として「河朔が朝命に従わないのは刺史が権を失い鎮将が専横するため」と献策し刺史の権限回復と景州の廃止を建言、制度改革が評価された。
- 王廷湊討伐では深州に出陣するが朝命の混乱で慎重になり過ぎ、穆宗に観望と見なされ杜叔良に交代、太子太保。長慶末、山南西道節度使、天平軍節度に転じ、文宗初、司徒。李同捷の襲位問題では滄景節度も兼ね齊州を管轄したが、まもなく没した。享年67、贈太尉、諡は懿穆。
- 出自は行伍から起こり部下と苦楽を共にし人望が厚かった。降将李端の妻が「よく烏僕射に仕えよ」と言い残して死んだ逸話が伝わる。温造・石洪ら名士を幕僚に迎えた。没後、部下20余人が股を刺して弔ったという。子漢弘が爵位を継いだ。
石洪
- 字は浚川、烏石蘭氏から石に改姓。品行に優れ明経に及第、黄州録事参軍を経て東都で10年余隠棲した。公卿の招聘に応じなかったが、重胤の「彼は求めがなければ来ないだろう」という言葉に応じ厚遇されて出仕、昭應尉・集賢校理となった。
李珙
- 儒家の家系ながら武才を好んだ人物。李抱真に用いられそうになるが酒癖を理由に見送られた。都将王虔休の推薦で登用。重胤による盧從史捕縛計画に呼応しようとしたが、朝廷主導と知り自重した。重胤の淮西討伐に都将として従軍、終官は右武衛上将軍。