王鍔
- 字は昆吾、太原の人と自称。湖南団練府の裨将として楊炎に才を認められた。嗣曹王李臯の武岡叛将王国良帰順工作の功で邵州刺史。臯の江西節度使時代には李希烈南侵に備え要地を守り、蘄州攻略に貢献し江州刺史・都虞候。臯の腹心として軍情を熟知した。
- 荊南節度使臯の下で佐官を務め、安州攻略では城内潜入して降伏を勧め成功させたが、功を伊慎に取られ疾を称して身を引いた。京師に召され鴻臚少卿。天宝末以来京師で扶養され続けた辺境民4千人の給付を停止し、財政節減(年50万緡)を実現。容管経略使8年で安定をもたらした。
- 嶺南節度使として市場の税を私的に流用し巨富を築き、舶来船の税も独占して京師の権家すら鍔の財に依存する状態となった。淮南節度使杜佑の後任として賄賂で地位を得た。尚書左僕射、河中節度使を経て太子太傅・河東節度使。財政再建で兵力を3万から5万に拡充。回鶻使節への軍容誇示で威嚇し検校司空・同中書門下平章事に至った。財の多さを恐れ2千万銭を献上したが、李絳の「宰相の地位を金で買えると思われる」との反対も帝に退けられた。贈太尉、諡は魏。
- 太原王翃に取り入り婚姻で家格を高め、儒者を自称したが世に嘲笑された。淮南時代の匿名投書事件を利用して権威を演出する策謀家でもあった。倹約家で細事にも及んだが、廃品を売って利を得るなど吝嗇な一面もあった。
王稷――鍔の子
- 鴻臚少卿。父の在藩中は京師で権勢の動向を窺い財を蓄えた。父の死後、遺言偽造疑惑で奴を誅殺された。長慶2年(822年)徳州刺史に任じられ財宝を携行するも、節度使李全略に軍乱で殺害され娘は妾にされた。
王叔泰――稷の子
- 全略の乱で郡人に匿われ生き延び、開成中に文宗に見出され九品官を授かり鍔の祀りを継いだ。