範希朝
- 字は致君、河中虞郷の人。邠寧軍の別将として節度使韓遊瓌に仕える。徳宗の奉天避難時の戦功で御史中丞。軍紀の厳正さを恐れた遊瓌に狙われ鳳翔に逃れたが帝に召され左神策軍。貞元4年(788年)、遊瓌に代わる話を「侵略と簒奪の誹りを避けたい」と辞退し張獻甫を推薦。軍の要求で結局希朝が起用され、寧州刺史・邠寧節度副使として獻甫を補佐した。
- 振武節度使として党項・室韋の略奪(「刮城門」)を要害配置で防ぎ、規律違反は厳罰、賄賂は一切受け取らず信頼を得た。貞元末の朝見でも自ら職務報告を怠らなかった数少ない節度使だった。
- 王叔文の下で右神策統軍・行営節度使に任じられ韓泰を副に据える計画があったが神策軍の実権を得られず頓挫。憲宗即位で検校尚書左僕射、右金吾衛大将軍、朔方靈鹽節度使、河東節度使として王承宗討伐で木刀溝の戦勝も、老病で大功には至らなかった。左龍武統軍を経て太子太保致仕、贈太子太師、諡忠武(後に宣武と改諡)。
- 当代随一の名将と称され趙充国に比された。朔方時代に沙陀の別部千落を招き、後にこの沙陀の兵が各地の戦で活躍した。