新唐書卷一百六十九 列傳第九十四 李藩

李藩

  • 字は叔翰、趙州の家系。父承は湖南観察使として名を知られた。藩は幼くして沈着で学に励んだ。父の喪に際し豊かだった家産を親族の求めのままに与え尽くし、40歳過ぎまで広陵で困窮したが動じなかった。杜亞の東都留守幕府に招かれ、亞が疑った牙将令狐運の冤罪を弁護し職を辞したが、後に真犯人が捕まり名を知られた。
  • 徐州張建封の幕府に招かれ、建封没後、濠州刺史杜兼の野心を諫めて憎まれ、「建封の死に乗じて軍を動かした」と誣告された。徳宗の密殺の詔を受けた徐泗節度使杜佑は10日発せず、藩に「因果応報は信じるか」と問い、詔を見せた。藩は動じず、佑は「わが命に代えて守る」と保護した。帝は藩の様子から「乱を企む者ではない」と確信し秘書郎とした。
  • 王紹の招きを断り、王仲舒らの遊興にも一度きりで距離を置いた(後に仲舒らは処罰された)。憲宗の太子時代の避諱改名を巡る議論では体面より実質を重んじる立場をとった。吏部郎中から著作郎、給事中。制の不備を勅尾で直接却下する厳格さで知られた。裴垍の推薦で門下侍郎・同中書門下平章事。
  • 忠実で歯に衣着せぬ性格。天下の富国窮乏の要因を問われ「倹約すれば足り、本業を厚くすれば富む」と答え、祭祀による祈願より仁政こそ神への誠意だと説いた。王鍔の宰相兼任要求を勅書の「宰相」の文字を筆で消して却下し「勢いに押されて出しては後戻りできない」と強行した。李吉甫の讒言(淮西節度襲位を巡る密通疑惑)で太子詹事に左遷、後に許され華州刺史に赴任前に没した。享年58、贈戸部尚書、諡は貞簡。
  • 人物評:才能では韋貫之・裴垍に劣るが人柄の清廉さは同格とされた。