裴垍
- 字は弘中、絳州聞喜の人。進士に及第、賢良方正の対策で首席となり美原尉。藩府の招聘を断り考功員外郎に至る。吏部侍郎鄭珣瑜の下で人事の精査を担当した。憲宗元和初、翰林学士に召され中書舎人。李吉甫の執政開始時、人材推挙を求められ30人余りを推薦し、天下がその人選を称えた。皇甫湜・牛僧孺らの対策批判を審査した件で学士職を解かれ戸部侍郎となるが、帝はその剛直さを評価し続けた。李吉甫の罷免後、中書侍郎・同中書門下平章事、集賢殿大学士・監修国史。
- 帝の信頼が厚く、宦官吐突承璀の口出しも垍を憚って控えられた。嶺南節度使楊於陵の冤罪を糾し、太原の監軍李輔光の失政を指摘して李鄘に交代させた。
- 王承宗討伐を巡り澤潞の盧從史の欺瞞的な策を見抜き、部将王翊元を通じて從史の悪事を暴き、烏重胤らを説得して從史を捕縛に導いた(承璀の功として朝廷に伝えられたが、垍が承璀の専断を戒める提言も行った)。
- 賦法の乱れ(上供・送使・留州の区分の歪み)を正し、送使の財を上供に統一する改革で江淮の民を救った。
- 器量厳正で法度を重んじ、諫官の直言を奨励した(独孤郁・李正辭・嚴休復の例)。李絳・崔群を学士時代から引き立て、拝相後も韋貫之・裴度・李夷簡らを登用し、多くが後に名臣となった。
- 元和5年(810年)、中風により罷免され兵部尚書。李吉甫の再任後、垍が引用した『徳宗実録』編纂での越権を咎められ太子賓客に左遷。没するも加贈されず、給事中劉伯芻の上奏で太子太傅を追贈された。
- 集賢院・史館の人事制度を定め、後世の令に定着させた。