杜黃裳
- 字は遵素、京兆萬年の人。進士・宏辞に及第。郭子儀の朔方府佐官となり、子儀入朝中は留守を任された。李懷光と監軍が詔を偽り大将を誅殺して人心を動揺させ子儀の地位を奪おうとした際、黃裳は詔の偽物であることを見抜き懷光を問い詰め自白させた。以後、驕慢な諸将は子儀の命で入れ替えられ、乱は抑えられた。
- 侍御史となるが裴延齡に憎まれ10年昇進できなかった。貞元末、太子賓客として韋曲に居住。宦官が韋曲の地を公主に賜るよう求めたが徳宗が「城南は杜氏の郷里、変えられない」と却下した。太常卿。王叔文が専権を握る中、黃裳はその門を訪れなかった。娘婿の韋執誼が輔政の際、黃裳は太子監国を勧めたが執誼に「一官を得たばかりで禁中の事に口を出すな」と拒まれ、「三朝の恩を受けた身が一官のために売られてなるものか」と怒って立ち去った。
- 皇太子(憲宗)の総軍国事に伴い門下侍郎・同中書門下平章事。夏綏銀節度使韓全義の無能を指摘し罷免。劉辟の反乱を巡り、他の議者が慎重論を唱える中、黃裳は討伐を強く主張し赦免に反対、宦官の監軍を廃して高崇文に指揮を一任させた。兵の進退を自ら指示し、崇文が恐れていた劉澭を代将として使う圧力をかけて崇文を奮起させ、蜀を平定させた。憲宗はその功を称えた。
- 徳宗以来の藩鎮への姑息な対応を戒め、法度を整え諸侯を制すべきと説いた。また帝に「王者の道は己を修め賢を任じるのみ、細事は自ら決すべきでない」と、秦始皇帝・魏明帝・隋文帝の失敗と舜の無為の治を対比して説き、帝の信頼を得た。これにより夏の平定・淮西の滅亡・両河の回復といった中興の基礎が築かれたとされる。
- 元和2年(807年)、検校司空・同中書門下平章事として河中・晉絳節度使、邠国公。翌年、享年70で没し、贈司徒、諡は宣獻。
- 人物評:権変に通じ王佐の大略があり、性は淡泊で物事に逆らわなかった。執誼を庇わなかった過去にもかかわらず失脚後は全力で救援し、死後は柩を返させ葬らせた。医療過誤で病が悪化しても怒らなかった。人材登用に潔癖さを欠き、賄賂を受ける者もいた。没後数年、御史が高崇文からの4万5千緡の収賄を弾劾したが、帝は旧功を惜しみ子の載を不問にした。
杜勝――黃裳の子(載の弟)
- 字は斌卿。宝暦初、進士に及第。楊嗣復の推薦も鄭覃に阻まれ用いられなかったが、宣宗が黃裳の旧功を思い起こし、勝に監国の議を語らせて感嘆、給事中から戸部侍郎判度支に至った。蕭鄴の後任として宰相候補になるも宦官の妨害で蔣伸が起用され、勝は天平節度使に転じ不遇のまま没した。