韋執誼
- 京兆の旧家の出身。幼くして才があり進士に及第、対策の成績も優秀で右拾遺となった。二十歳過ぎで翰林学士となり、機敏な弁舌で徳宗の寵を得た。詩歌の唱和にも召され、その才を認められた。皇太子が誕生日に絵を献じた際、執誼が賛を書き、太子から帛を賜って謝礼に赴いた折、太子は「王叔文を知っているか」と語りかけ、以来執誼は叔文と親しくなった。母喪を終えて吏部郎中となり、たびたび禁中に召された。補闕張正一の交遊関係が朋党を疑われ、金吾に監視され、執誼も連座を疑われたが事なきを得た。
- 順宗即位後、病のため親政できない帝に代わり実権を握った王叔文の引き立てで尚書左丞・同中書門下平章事に抜擢された。叔文・王稊が朝権を私しようとする中、執誼は表向き異論を唱えて世論に配慮しつつ、内々には叔文に「国家のためだ」と弁明していたが、たびたび叔文の意に逆らい仇怨を生んだ。憲宗の受禅により叔文・王伾は流され、党与は分散して処罰された。執誼も崖州司戸参軍に貶されたが、宰相杜黄裳の娘婿であることから処罰は最後になった。
- 失勢を悟り禍の接近を恐れ、在位中も気力を失い、足音に怯えるほどだった。かつて嶺南の州県の話題を嫌い、職方で嶺南の地図を見ることすら避けていたが、宰相となった際、執務室にあった地図を見ないまま20日を経て確かめると崖州の図であり、不吉な予兆として恐れた。果たしてその地で貶死した。