王叔文
- 越州山陰の人。碁の待詔として仕え、政治にも通じていた。徳宗の詔で東宮に侍り、太子(順宗)の侍読として宮市の弊害などを論じた。太子が「上に極言する」と言うと周囲は賛同したが叔文一人は黙していた。後に「太子の務めは視膳問安のみで、政治向きの発言をすれば小人の讒言を招く」と諫め、太子の信頼を得て宮中の事に関与するようになった。
- 浅薄な人物で、「某は宰相に、某は将軍になれる」と大言し、韋執誼・陸質・呂温・李景儉・韓曄・韓泰・陳諫・柳宗元・劉禹錫らを死友とし、凌準・程异も党に加わった。有力藩鎮との内密な結託もあった。
- 順宗が病で政務を執れず、牛昭容・宦官李忠言が側近くに侍る中、王伾を通じて叔文の意向が伝えられ、蘇州司功参軍から起居郎・翰林学士に急昇進した。伾が伝達、叔文が裁可、執誼が詔文を起草する体制となった。李景儉・呂温・陸質・韓泰・陳諫・凌準・柳宗元・劉禹錫らが伊尹・周公になぞらえて叔文を持ち上げた。銭穀の権を握るべく杜佑を度支塩鉄使に立て自ら副使として実権を握った。
- 宦官俱文珍が叔文の権勢を忌んで学士職を解いたが、伾の懇願で3~5日に一度の出仕は認められた。宮中の実権を得るため神策軍の統制を狙い、宿将范希朝を西北諸鎮行営兵馬使に、韓泰を副に据えたが、宦官らが権力奪取を察知し諸鎮に警戒を促したため失敗した。
- 母の死を隠して宴を開き、暗に軍事的な威勢を誇示した。羊士諤・劉辟への処罰計画が執誼に阻まれたことへの不満を漏らすなど自らの功を誇った。母の死が発覚後も改悛せず、執誼への謀殺を企てたため人々に恐れられた。太子(広陵王=後の憲宗)擁立の動きに叔文だけが憂色を示し、杜甫の諸葛祠の詩を吟じて涙した。太子監国とともに渝州司戸参軍に貶され、翌年誅殺された。
附 王伾
- 杭州の人。書の待詔として翰林に入り太子宮の侍書となった。順宗即位で左散騎常侍・待詔。容貌が醜く語りも訥弁だったが帝の寵愛を受けた。叔文ほど気概はなかったが賄賂を受け取ることに長け、大きな匱を作って賄賂を収め、その上に寝るほどだった。
- 叔文の喪中、伾は宦官・杜佑を通じ叔文の宰相復帰・北軍総督を求めたが認められず、憂悸して病臥し「持病が起きた」と偽って輿で退出した。開州司馬に貶され任地で没した。党与は皆逐われたが陸質のみ死去により免れた。
附 韓曄
- 韓滉の一族の子で俊才があった。司封郎中から饒州司馬に貶され、永州刺史で終わった。
附 陳諫
- 記憶力に優れ、染署の帳簿の寸法まで一目で暗記したという。河中少尹から台州司馬に貶され、循州刺史で終わった。
附 凌準
- 字は宗一、史学に通じた。翰林学士から連州司馬に貶され、その地で没した。
附 韓泰
- 字は安平、謀略に長け伾・叔文に重用された。戸部郎中・神策行営節度司馬から虔州司馬に貶され、湖州刺史で終わった。