新唐書卷一百六十七 列傳第九十二 皇甫镈

皇甫镈

  • 涇州臨涇の人。貞元初、進士・制科に及第し監察御史。喪中の素行不良で詹事府司直に降格。吏部員外郎で南曹を統率し不正を取り締まり知られるようになった。郎中、司農卿、判度支、戸部侍郎を歴任。憲宗の蔡州討伐の財政需要に応え、御史大夫を兼ねた。蔡州平定翌年、同中書門下平章事となり度支も継続して管掌。
  • 吏事の才で宰相に上り詰め、聚斂・搾取が甚だしく市井にまで嘲笑された。崔群・裴度が帝に訴えても聞かれず、度が辞表を出して镈の奸邪を痛烈に批判し、浙西観察使への転任を求めたが容れられなかった。帝が天下平定後に台榭宮観の造営を望んだことに乗じ、镈は財を進献して意を迎え、宦官吐突承璀にも賄賂を贈って地位を固めた。
  • 内外官の俸給削減を主張したが給事中崔植の反対で撤回。内帑の粗悪な絹布を辺境の兵に高値で売り兵の怨嗟を買った件では、镈は自分の靴を証拠に品質を弁護し帝を欺いた。李逢吉・令狐楚と結んで裴度を太原に追い、崔群も讒言で湖南に左遷させた。
  • 門下侍郎平章事に進むが、方士柳泌・僧大通を長生薬の製造者として推薦し帝を惑わせた。穆宗即位後、その奸妄が糾弾され崖州司戸参軍に貶され、その地で死んだ。
  • 柳泌(本名楊仁晝)は道古の推薦で天台山の異草を求め台州刺史に取り立てられたが、成果なく逃亡し捕らえられた。镈の敗死後、泌と大通も誅殺された。

皇甫鏞――镈の弟

  • 字は龢卿、進士に及第。镈が宰相だった頃、河南少尹として権寵の過大を諫めたが聞かれず、太子右庶子として分司に出た。镈の失脚後は賢者と評され国子祭酒。開成初、太子少保で没した。文章・詩に優れ、寡言で威儀を保ち世務を軽んじ、知名の士と交わり数十篇の著書を残した。