崔群
- 字は敦詩、貝州武城の人。弱冠前に進士に及第、陸贄が試験官を務め梁肅が推薦、甲科・賢良方正で秘書省校書郎となった。右補闕、翰林学士、中書舎人を歴任。しばしば正論を奏上し憲宗に評価され、「奏議は群の署名を経てから上奏せよ」との詔があったが、「これが前例になれば直言する学士が排除されかねない」と固辞した。
- 恵昭太子の薨去後、澧王を推す動きに対し「己が当然得るべきでないものは辞退すべき、遂王が嫡子だから太子とすべき」と主張し帝が従った。田季安の仏寺への献納を「名分なき献上」として拒否させた。
- 元和12年(817年)、中書侍郎・同中書門下平章事。李師道誅殺後の家族の処遇を問われ、釈放と財産返還を進言。塩鉄院官権長孺の老母の哀願に応じ減刑を進言。「聴受の難しさ」を巡る憲宗との対話では「情実があれば見抜くのが難しい」と答えた。
- 処州刺史苗積の余銭進献を「信を失う」として辞退させ民への還元を提言。皇甫镈の佞幸を批判し、開元・天宝の盛衰を挙げて帝を諫めた。「安禄山の乱の起点は張九齢の罷免と李林甫の登用にある」との史論を述べた。帝号への「孝徳」追加に反対。皇甫镈の讒言(辺境の兵糧不足問題を政争の道具にしたとの中傷)により湖南観察使に左遷された。
- 穆宗即位で吏部侍郎に召還され、太子擁立の功への謝辞を受けたが群は「先帝の意向によるもの」と謙遜した。御史大夫、武寧節度使(副将王智興の反乱で失脚し秘書監に左遷)、華州刺史、宣歙池観察使、兵部尚書、荊南節度使、吏部尚書を歴任。享年61で没し、贈司空。
史論
- 聖人は多難を畏れず、無難を畏れるものだという。多難の世には人々が深く思案し日々戒めるがゆえに天下を保てるが、禍難が去ると人は安逸に流れ「賢者がいなくとも治まる」と侮り、法度が崩れても気づかない。常人が畏れることを聖人は容易とし、常人が畏れぬことを聖人は難事とする。憲宗(孝明皇帝)は本来中程度の資質の君主で、変事には共に謀れたが、成し遂げた後を共にし続けることはできなかった。崔群の「李林甫を宰相にした時点で治乱はすでに分かれていた」との言は、まことに扁鵲が桓侯を責めた故事に通じる至言である。