新唐書卷一百六十五 列傳第九十 鄭珣瑜

鄭珣瑜

  • 字は元伯、鄭州滎沢の人。幼くして父を失い、天宝の乱では陸渾山に隠棲して母を養った。転運使劉晏・山南節度使張獻誠の招聘を辞退。大暦中、諷諫主文科の高第で大理評事、陽翟丞、拔萃で万年尉。崔祐甫の下で左補闕、涇原帥府判官、侍御史・刑部員外郎(母喪で辞任)、吏部を歴任。貞元初、十省郎から畿・赤県の治にあたり、饒州刺史、諫議大夫、吏部侍郎を経た。
  • 河南尹として徳宗誕生日の献馬慣行を「着任前の献上は礼にかなわない」と拒否。清静な統治で民を利し、韓全義の蔡州討伐に伴う漕運負担を陽翟に密かに蓄えて肩代わりし、百姓に負担を知らせなかった。監軍からの不当な要求は掛壁して応じず、数百通に及んだ。「万人の民を苦しめるくらいなら自分が責を負う」と述べた。張延賞の治世に比され、それ以上の重厚さと評された。
  • 吏部侍郎に召還後、門下侍郎・同中書門下平章事。京兆尹李実の不正な進奉を面と向かって詰問した。
  • 順宗即位で吏部尚書。王叔文が専権を振るい、宰相の会食を妨げられる事件が起きると、杜佑・高郢とともに憤慨し出仕を拒み7日間自宅にこもって辞職した。まもなく病で没し、享年68、贈尚書左僕射。諡号「文献」を巡って、二字諡は非礼か否かの論争(徐復と李巽)があったが、徐復案が採用された。子は覃。

鄭覃――珣瑜の子

  • 弘文校書郎から諫議大夫。憲宗が宦官5人を和糴使に任じたのを罷免させた。
  • 穆宗の放埒に対し崔郾らと諫言し、辺境情勢を踏まえて宴楽より辺備を優先すべきと説き、帝の理解を得た。
  • 王承元の鄭滑節度使転任に伴う軍中不安を宣諭使として鎮撫し成功させた。
  • 宝暦初、京兆尹。文宗は翰林侍講学士として重用し工部侍郎に進めたが、李宗閔・牛僧孺が李徳裕に近い覃を疎んじ工部尚書に遠ざけた。帝は再び覃を召し侍講学士とし、李訓誅殺後は同中書門下平章事に任じた。
  • 進士科の廃止を主張(「南北朝の乱れは文采が質実に勝ったためだ」)したが帝に退けられた。治世の緩みを戒め、門下侍郎・弘文館大学士に進む。詩の当否を巡り雅正な詩を重んじる論を述べ、順宗実録の史実性について帝と議論した。
  • 太学に五経博士を置くことを求め、開成3年(838年)の旱害で宮人を放出した施策を評価。病を理由に辞任を願い、武宗の再任要請も固辞して司空で致仕、没した。
  • 人物評:清正で驕らず、居宅は飾らず妾を置かなかった。女孫を九品官の崔臯に嫁がせ権門との縁組を避けた。経籍の誤りを正すため、周墀・崔球・張次宗・孔温業らに校訂させ石経として太学に刻んだ。子は裔綽。

鄭裔綽――覃の子

  • 峭直で父の風があり、李徳裕に見出され渭南尉から弘文館直学士、諫議大夫。劉潼の桂管観察使任命に固く反対したが聞かれず、後に取り消された。給事中として楊漢公の同州刺史任命に反対する封還を鄭公輿と共に行い、「太宗興王の地を汚職官吏に任せるべきではない」と諫めて商州刺史に貶された。後に浙東観察使を経て太子少保で終わった。

鄭朗――覃の弟

  • 柳公綽の山南幕府から右拾遺、開成中に起居郎。文宗が起居注の記録内容を問うた際、史官の直筆の重要性(唐太宗と朱子奢の故事、褚遂良の言)を説いて感心させた。
  • 諫議大夫・侍講学士。華州刺史から御史中丞・戸部侍郎、鄂岳・浙西観察使、義武・宣武節度使、工部尚書判度支・御史大夫を経て工部尚書・同中書門下平章事。宦官李敬寔の非礼を糾弾し、宣宗に処分させた。諫官鄭言を他官へ転出させ諫言の職責を全うした。病により太子少師となり没し、贈司空。
  • 若い頃、相者が「貴人となるが科挙では進めない」と予言したが、覆試で及第を取り消される波乱を経て後に宰相となり、予言が的中した逸話が伝わる。