新唐書卷一百六十五 列傳第九十 鄭餘慶
鄭餘慶、字は居業。鄭州滎陽の人で三代続けて顕官を輩出した家柄。若くして進士に及第し、山南西道節度使の幕を経て翰林學士等を歴任、二度にわたり同中書門下平章事(宰相)を務めた憲宗朝の重臣。清廉で質素な生活を守り、後進の指導や儀礼制度の整備にも尽力した。享年75、贈太保、諡は貞。
鄭餘慶
- 鄭餘慶、字は居業。鄭州滎陽の人で三代続けて顕官を出した家柄。若くして文章に優れ進士に及第した。
- 山南西道節度使嚴震の幕府に入り、貞元初年に朝廷へ戻って庫部郎中・翰林學士を歴任し、工部侍郎として吏部の選考も掌った。僧法湊の訴訟では、担当官の諸葛述が卑賤の身で三司に関わるのは不適切と弾劾し、その正論が評価された。
- 貞元14年(798年)、中書侍郎・同中書門下平章事に昇る。度支使於[於頔ではなく人名「於」]を庇って坐事に問われ、また禁衛十軍への賑済を巡る議論が漏洩したため、二度の失態を重ねて郴州司馬に左遷された。
- 順宗即位で尚書左丞に召還され、憲宗の即位に伴い同中書門下平章事に復帰。主書滑渙が宦官劉光琦と結託して宰相会議を操っていたのを叱責し追い払った(後に渙は贓罪で失脚し、憲宗はこれを聞いて餘慶を評価した)。
- 国子祭酒を経て吏部尚書。医工出身の崔環が不当に高い官位を得ようとした人事に反対し、権力者の不興を買って太子少傅・判太常卿事に回された。朱泚の乱以来禁じられていた太常の鼓楽を旧制に復させた。山南西道節度使を経て太子少師となるが、致仕は許されなかった。
- 恩赦の乱発による官位の濫発を憂う帝の求めに応じ、尚書左僕射として詳定使に任命され、韓愈・李程を副使、崔郾・陳佩・楊嗣復・庾敬休を判官として儀礼制度の整理にあたった。
- 鳳翔尹・鳳翔節度使を経て太子少師・滎陽郡公、兼判国子祭酒事。兵乱による学校荒廃を憂え、文官の月俸百分の一を拠出して整備する案を上奏し許可された。穆宗の即位で検校司徒。享年75で没し、贈太保、諡は貞。帝は餘慶の家が貧しいことを惜しみ、特別に一月分の俸料を弔賻とした。
- 人物評:若くから身を律し、俸禄はことごとく親族の救済や急を要する人への援助に充て、自身の生活は質素だった一方、官府では宴席を大きく開いた。「俸禄が親友に及ばず妾に贅を尽くす者は卑しい」が持論。姻戚の婚礼の礼物は自ら検分した。後進の指導に熱心で経義を懇篤に説いた。至徳以後、方鎮への除拝の際に内使へ多額の賄賂が贈られる慣行があったが、憲宗は餘慶に使者を送る際「この家は貧しいから求めるな」と必ず戒めた。奏議に古語を多用し理解されないこともあった。従父行の鄭絪と同じ昭国坊に住み、絪第は南、餘慶第は北にあったため「南鄭相」「北鄭相」と呼ばれた。子は澣(本名涵、文宗の諱を避け改名)で、敢言の士として憲宗に「卿の令子にして朕の直臣」と評された。
鄭處誨――餘慶の子
- 字は廷美、文才に優れた。刑部侍郎・浙東観察使・宣武節度使を歴任し官途で没した。李徳裕の『次柳氏舊聞』を不十分として、自ら『明皇雜錄』を撰し、当時広く伝わった。
鄭從讜――餘慶の子
- 字は正求。進士に及第し校書郎から左補闕を歴任。令狐綯・魏扶の門生として推挙され中書舎人となる。咸通中、吏部侍郎として銓衡が公正だった。河東節度使・宣武節度使を経て善政で知られた。嶺南東道節度使として林邑の侵攻や龐勛の乱への対応に追われる中、土豪を募って要職に就け国境を安定させた。
- 僖宗即位で刑部尚書に召され、まもなく同中書門下平章事・門下侍郎。沙陀の李国昌が振武・雲朔に割拠し河東節度使康傳圭が殺害される事件が起きると、宰相の身分のまま河東節度使・行営招討使を兼ね、佐官を自ら選抜(王調・劉崇亀・劉崇魯・李渥・崔沢ら)し「小朝廷」と評された。反乱の首謀者は誅し、張彦球のような有能な者は赦して兵権を与え、忠誠を得た。
- 黄巣の乱では諸葛爽への援軍派遣、李克用の脅威への対応(面と向かって説得し撤退させる)、沙陀討伐での勝利、命令違反者安某の処刑などを行った。中和2年(882年)沙陀が赦されると、克用に河東を引き継がせる際、監軍周従寓・書記劉崇魯に留守を任せて帰任した。
- 黄頭軍の兵糧不足による混乱で絳州へ避難、後に召還されて司空・太傅兼侍中。興元に帝に従い、病により太子太保となり没した。諡は文忠。
- 人物評:進退に礼法があり、驕らず沈毅で謀略に富んだ。汴州在任中、処誨(族兄)の死去に際しても任地の楽を止めるなど礼を尽くした。若手の陸扆を見出し推挙し(後に宰相となる)、張彦球の軍功も評価した。太原の重鎮としての存在感は大きく、鳳翔の鄭畋と並んで賊に恐れられ「二鄭」と称された。