新唐書卷一百六十四 列傳第八十九 王彥威

王彥威

  • 王彥威、明経に及第し、隋以来の礼制沿革をまとめた『元和新礼』を上奏。憲宗崩御の際の葬期を古礼に基づき正した。穆宗代、大行皇帝への「祖」号追贈論に対し、唐の太祖は景皇帝であり歴代の宗号の体系を乱すべきでないと論駁し採用された。
  • 李師道平定後の両税法の均一化を担当し、殺人犯の自首による減刑論に対しては「殺人者は死をもって償うべき」と厳格な立場を貫いた。度支使として財政の実態を『占頟図』『供軍図』にまとめて上奏したが、実効性には限界があった。宦官仇士良らへの迎合的な対応もあり、一時衛尉卿に降格された後、忠武節度使などを歴任し没した。

  • 韓愈は「郡邑は社稷と孔子を祀ることができるが、孔子だけは王者の礼で祀られ、門人が配され、天子以下が北面して拝跪する。句龍・棄が功によって祀られるのに対し、孔子は徳による。おのずと格が異なる」と述べた。歸崇敬が孔子祭祀に東面の礼を提案し重すぎる礼を軽くしたのは、当時の公卿に韓愈のような賢者がなく、その非を正す者がいなかったためである。道州刺史薛伯高はかつて「顔回だけが夫子に『庶幾』と称され、陳・蔡に従った者にもそれぞれ号があったのは一時のことで、後世に十人を一律に祀って哲人とするのは孔子の志ではない」と論じた。七十子の賢に照らせば十人に勝る者もあり、これを開元年間から一律に祀ってきたのは、単に一時の称号に引きずられたものにすぎない。『礼記』は「祭祀は始めた者があれば、後の者はあえて廃さない」と説く。歸崇敬が礼を真に理解していなかったとしても、君を尊び世に媚びる形で歴朝これに従い改めなかった。薛伯高の言葉は柳宗元がその書に記しており、いずれこの誤りを弁ずる者が現れるはずである。