新唐書卷一百六十四 列傳第八十九 歸崇敬

歸崇敬

  • 歸崇敬、字は正禮。蘇州吳の人。礼学の家学に通じ、天宝中の博通墳典科で対策第一となった。代宗に「倹約による天下教化」を説いた。百官朝服の袴褶を古制でないとして廃止させ、東都太廟の木主設置の不当性、四季月郊祀論の否定、五人帝祭祀での臣称の是非、孔子釈奠の礼式(東面の礼)など、多くの礼制論争に精緻な議論で決着をつけた。
  • 冊立新羅使として海難に遭った際も一人で逃げず全員と運命を共にする覚悟を示した。清廉で外国での賄賂を一切受け取らず、東夷にまでその清徳が伝わった。皇太子の国学親臨に際し、「辟雍」の古名復活や祭酒・司業の名称変更、五経博士の設置、教授法・考試法の細部に至る包括的な教育改革案を上奏したが、改革は難しいとの理由で実現しなかった。晩年、翰林学士・左散騎常侍として田悦・李納への宣慰を務め、88歳で没し、尚書左僕射・諡宣を贈られた。

崇敬子 登

  • 歸登、字は沖之。継母への孝行で知られた。裴延齡の宰相登用に反対する熊執易の疏を見て「私の名も連ねてくれ」と同志を申し出た。順宗・憲宗の侍読を務め、『龍樓箴』を献じた。67歳で没し、太子少師・諡憲を贈られた。家僕への寛容や、毒薬を試された際も怒らなかった逸話が伝わる。

登子 融

  • 歸融、字は章之。翰林学士から御史中丞となり、湖南観察使盧周仁の不正な進奉を厳しく弾劾した。金部員外郎韓益の贓罪と盧元中の罪の軽重を的確に判断し、京兆尹・兵部尚書を歴任。会昌年間以降の儒臣不足の中、朝廷の礼典の多くは融の議論に基づいたという。