祖父張鷟の逸話
- 張薦、字は孝挙。深州陸沢の人。祖父の張鷟、字は文成。生まれる前、大父が紫文の大鳥の夢を見て「鸑鷟か」と名付けたという。若くして科挙に才を示し、考功員外郎騫味道に「天下無双」と評された。8度の制挙すべてに甲科で及第し、員外郎員半千は「鷟の文辞は青銅銭のようで万選万中」と称し、「青銅学士」の異名を得た。姚崇に嫌われ、御史李全交の弾劾で嶺南に貶されたが刑部尚書李日知の弁護で内地に戻った。文章は華美だが軽妙で、新羅・日本の使者が金宝を以て文を求めたほど名声を博した。司門員外郎で終わった。
史官としての活躍
- 張薦は『周官』『左氏春秋』に通じ、顔真卿に才を称賛された。李涵の推挙で史官修撰となった。顔真卿が李希烈に拘留された際、薦は真卿の忠義を強調し、希烈の親族を人質として真卿と交換する策を上疏したが、盧杞に握りつぶされた。
- 硃泚の乱では姓名を隠して『史遁先生伝』を著し、乱平定後は左拾遺に抜擢され、盧杞の再登用に反対する論陣を張った。貞元元年(785年)の親郊の礼制整備、回鶻への鹹安公主降嫁の判官、裴延齡との対立による秘書少監への左遷などを経て、回鶻・吐蕃への使者を歴任。3度の絶域への使行を経て侍御史・中丞・大夫を兼ね、赤嶺で没した。享年61。順宗の代に礼部尚書・諡憲を贈られた。20年にわたり史館修撰を兼ね、昭徳皇后廟楽や太儀位号の制定にも参与した。
薦孫 讀
- 張讀、字は聖用。鄭薰に宣州幕府へ招かれ、礼部侍郎、吏部での選考の厳正さで知られた。弘文館学士も兼ねた。