出自と汴州平定
- 韓弘、滑州匡城の人。舅の劉玄佐に養われ武芸を学んだ。劉全諒の死後、軍中に推されて宣武節度副大使・留後となった。呉少誠・劉全諒の陰謀による陳許襲撃計画を察知し、少誠の使者を斬って自らの忠を示した。軍中の横暴な将卒300人を粛清し、以後綱紀は保たれた。李師古の陰謀も見抜いて未然に防いだ。
淮西討伐と晩年
- 憲宗の淮西討伐で行営都統となったが、自ら出陣せず逗留策を取り危機を招かない範囲で功を稼いだと評された。呉元済平定の功で許国公に封じられ、李師道誅殺後は入朝して司徒・中書令に至った。汴州から莫大な資財(絹50万、馬7千、糧300万斛など)を朝廷に献じ、寡黙で沈毅な性格から呉少誠・李師道らも恐れた。58歳で没し、太尉・諡隠を贈られた。
弘子 公武
- 韓公武、字は従偃。宣武行営兵馬使として蔡州討伐の功で鄜坊等州節度使となったが、父弘の入朝後は身の程を弁えて右驍衛大将軍に留まった。恭謙な人柄で富貴に驕らず、戸部尚書・諡恭を贈られた。
弘弟 充
- 韓充、もとの名は璀。李元の下で牙将として仕え、その信任を得て後に弘の親兵を統率した。厳格な弘の下で誰もが不安を抱く中、充は謙虚に振る舞い自ら宿衛を願い出て朝廷の信頼を得た。義成軍節度使として汴州の乱を鎮定、20日で汴州を破り「充の敵情判断は神のごとし」と帝に称された。脅されて反乱に加わった3万を釈放し首謀者のみ処罰した。55歳で没し、司徒・諡粛を贈られた。倹約を旨とし、3鎮を歴任しても儒者のような生活を貫いた。
贊
- 韋臯・張建封・韓弘はもと諸生の身から、嚴震も田畑の間から身を起こした。凡人と変わらぬ出自でありながら、機に投じて国の梁楹(柱石)となり、一時の光彩を放った。境遇に恵まれなければ庸夫として朽ち果てたであろう。臯・弘は陰謀めいた面もあったが、最後は誠実な言葉で自ら解き、天寿を全うした。それも当然のことである。