新唐書卷一百五十四 列傳第七十九 李晟
洮州臨潭の人、字は良器。吐蕃討伐の武功で名を上げ、涇原・河北討伐を経て、硃泚の乱では長安を奪還した中興の元勲。功成り名を遂げてなお驕らず、軍紀を厳しく保って民に被害を及ぼさなかった名将として称えられた。貞元7年(791年)、67歳で薨去、太師を追贈され諡は忠武。子の李愿・李憲・李愬・李聽もそれぞれ節度使などを歴任し、家門の名声を保った。
李晟――出自と若年の武功
- 李晟、字は良器。洮州臨潭の人。代々武を以て仕えたが裨将止まりの家柄であった。幼くして父を失い、母に孝を尽くした。身長六尺。18歳で河西の王忠嗣に仕え、吐蕃討伐に従軍。城壁に乗った猛将を一矢で射殺し、忠嗣に「万人に匹敵する」と称された。鳳翔節度使高昇のもとで疊州・連狂の羌を破り、左羽林大将軍に進んだ。広徳初年、党項討伐の功で特進・試太常卿を授かった。
- 大暦初年、李抱玉のもとで右軍将となる。吐蕃が霊州に侵攻した際、5千の兵の提供を辞退して千人の精鋭で臨み、大震関から臨洮に進んで定秦堡を屠り、慕容谷鐘を捕えて虜を撤退させた。開府儀同三司を経て涇原・四鎮・北庭兵馬使。馬璘が鹽倉で吐蕃に敗れた際、遊兵を率いて璘を救出し、合川郡王に封じられた。璘は晟の威望を忌んで朝廷に召還させ、右神策都将とした。徳宗即位後、吐蕃が剣南に侵攻すると神策兵を率いて救援し、飛越等三城を奪還した。
李晟――魏博・河北討伐
- 建中2年(781年)、魏博の田悦が反乱を起こすと、神策先鋒として河東馬燧・昭義李抱真と合軍し、楊朝光を斬り、洺水を渡って田悦を破った。硃滔・王武俊が趙州の康日知を包囲した際、燧が撤兵しようとするのを晟が諫めて思いとどまらせ、定州の張孝忠と連携して范陽を図る策を献じた。清苑で硃滔の将鄭景済を包囲し、田悦・王武俊の来援も撃退したが、自身の重病により一時撤退を余儀なくされた。
- 病が癒えると再進撃しようとしたが、徳宗が奉天へ避難したとの詔を受けて即座に馳せ参じた。張孝忠に子を人質として預け、玉帯を贈って信を示し、飛狐を越えて神策行営節度使となった。渭南で軍の乱れを鎮め、東渭橋に布陣した。
李晟――李懐光との確執と長安奪還準備
- 朔方の李懐光が晟との合軍を望み、晟は陳涛斜へ進んで懐光と連携した。晟が戦の際に錦裘繍帽で目立つ姿を見せたことを懐光が咎めると、晟は「涇原にいた頃、士が畏服するよう自ら姿を示す必要があった」と応じた。懐光は晟に速戦を促されても応じず、神策軍の厚遇に不満を述べて晟に軍費削減を迫ったが、晟は「軍政は元帥の権限」と柔軟に応じて懐光の思惑を挫いた。
- 懐光が咸陽で80日も出兵せず、密かに硃泚と通じている疑いが強まると、晟は洋・利・剣三州を確保する策を上奏したが返答がないうちに、懐光は李建徽・陽惠元の軍を奪い、惠元は戦死した。徳宗は梁州へ避難する道中、「早く晟の言を用いていれば」と嘆いた。
- 徳宗は晟を尚書左僕射・同中書門下平章事に任じ、晟は拝命して「京師は天下の本、これを取り戻さねば」と涙した。財政が窮乏する中、張彧を京兆少尹格で任用して畿内の賦を集め、軍需を整えた。駱元光・尚可孤・戴休顔・韓遊瑰らを合流させ、懐光には偽って恭順を示しつつ、その配下の孟渉・段威勇らを寝返らせた。
李晟――長安奪還と論功行賞
- 諸将が外城から攻めるべきと主張する中、晟は「賊の精鋭は禁苑に集結している、直接その中枢を突くべき」と主張し、光泰門から兵を進めた。硃泚軍の張庭芝・李希倩が決戦を挑んでくると、晟は「賊が自ら死地に来た、天の授けだ」と全軍を鏖撃し大勝、光泰門を突破した。翌日、苑の垣を予め崩しておいた道から万頃・王佖らが突入し、賊は崩壊、硃泚は残兵1万を率いて西走した。
- 京師平定にあたり、晟は軍紀を厳しく守らせ、5日間家族への私信を禁じて掠奪を防いだ。掠奪した将を即座に斬り、坊里の人々は王師の入城を知らぬまま静かに過ぎたという。露布が梁州に届くと徳宗は感涙し、群臣は「市も動じず、宗廟も揺るがず、三代の用兵にも勝る」と称えた。帝は「天が晟を生んだのは社稷万民のためだ」と述べ、司徒・中書令、実封千戸を授けた。晟は帝を出迎える際、「乗輿が再び避難する事態を招いたのは臣の不明」と伏して謝罪し、帝はこれに応えて第宅・田・園林・女楽を賜った。功績を記した碑文が東渭橋に建てられた。
李晟――涇原経略と吐蕃への警戒
- 涇州の乱れを治めるため、晟は鳳翔・隴右・涇原節度使兼行営副元帥、西平郡王に封じられた。李楚琳の処遇を巡り徳宗と意見が対立したが、涇州に着任すると乱を起こした王斌ら十余人を誅した。宦官尹元貞が矯詔で李懐光を慰撫したことを弾劾し、懐光への赦免に「五つの不可」を挙げて反対したが、帝は馬燧・渾瑊に事を委ねていたため容れられなかった。
- 涇州で田希鑒を捕らえて誅し、大酋浪息曩を厚遇して吐蕃の帰順を促すなど、辺境統治に努めた。吐蕃の重臣尚結賛は「唐の名将は李晟・馬燧・渾瑊のみ」として離間策を用い、燧と結んで瑊を陥れようとした。晟は結賛の陽動を見破って伏兵で迎撃寸前まで追い詰め、摧沙堡を陥落させたが、宰相張延賞との不和もあり、朝廷は徐々に晟の兵権を削ぐ方向に傾いた。
李晟――兵権返上とその後
- 貞元3年(787年)、帝は宣政殿で晟を太尉・中書令に進めると同時に兵権を解いた。晟は淩煙閣に馬燧とともに肖像を描かれ、五廟を賜るなど厚遇された。帝は晟・燧の功績を称える詔を発し、桓彦範・劉幽求・郭子儀ら歴代の功臣に比した。
- 貞元7年(791年)、67歳で薨去。帝は涙を流し、太師を追贈、諡は忠武。憲宗の代には晟を徳宗廟廷に配饗した。僖宗が蜀に避難した際、袁皓が晟の功績を『興元聖功録』にまとめ、諸将に配って励みとした。
李晟――人物と統率
- 晟は悪を憎み、部下の労苦や長所を細かく記憶したが、朋党を組む者は特に嫌った。旧恩ある者への義理を重んじ、恩人の子を厚遇した。「魏徴のように直言で太宗を堯舜に導いた忠臣に憧れる」と語り、諫言を控えるよう勧める部下を諭した逸話も残る。家では厳格に礼を教え、正月に里帰りした娘を叱って追い返すなど、家庭の秩序を重んじた。馬燧と並んで恩寵を受け、両家に絶えず使者が往来した。
子 愿 憲
- 李愿は謙虚で慎み深く、元和初年に夏綏銀宥節度使となった。逸失した馬を金で買い取らせる牒を出すと、失った馬に良馬を添えて返しに来た者が現れ、境内が粛然となった逸話がある。武寧軍節度使を経て鳳翔節度使となったが、次第に声色に耽り政が乱れた。宣武節度使として在任中、部下の反乱で三子を失う事件が起き、責を問われ隋州刺史に貶されたが、その後も復権を重ねた。
- 李憲は諸子の中で最も仁孝と称された。衛州刺史・絳州刺史などを歴任し、絳州では汾水沿いの水運改革により民の負担を軽減した。宗正少卿として太和公主の送使を務め、『回鶻道里記』を献じた。律令に明るく寛大な裁きで数百人の無実の罪人を救った。
子 愬
- 李愬、字は元直。父の喪に服する際、実子でないため服喪を免れる立場にあったが自ら望んで喪に服した。憲宗の呉元済討伐で唐鄧節度使に任じられ、士気を保つため索敵活動を控えて敵を油断させる戦術をとった。降者を厚遇し、山川の情勢を熟知するに至った。
- 馬鞍山・道口柵・爐冶城など諸城を次々陥落させ、丁士良・呉秀琳ら敵将を投降させた。とりわけ李祐を捕らえた後、諸将の反対を押し切って厚遇し、六院兵馬使に抜擢したことが、後の蔡州奇襲の要となった。
- 元和11年(816年)10月、大雪の夜に文城柵を出発、70里を進んで懸瓠城を急襲し、翌未明に蔡州城を陥落させて呉元済を捕縛した。この奇襲策は李祐の献策と愬の決断による功績とされる。淮西平定後、山南東道節度使・涼国公に封じられた。
- 李師道討伐で武寧軍節度使に転じ、父兄の跡を継いで名誉とされた。魏博の乱の際には田弘正への恩義を説いて軍を鎮め、玉帯・宝剣を牛元翼に贈って激励した。49歳で薨去、太尉を贈られ、諡は武。行動は倹約を旨とし、父時代の旧院に住み続けた。
史論(李愬について)
- 李愬が李祐を殺さず兵権を委ねたのは、敵を破れると見抜いたからである。李祐がそれに応え死を賭して策を立てたのは、愬がその謀を用いたからである。李祐の才は愬によって顕れたのであり、蔡州平定の功は愬に多く帰すべきである。
子 聽
- 李聴、字は正思。神策行営兵馬使として王承宗討伐で功を立て、蔚州刺史として銅冶を復活させ盗鋳を絶った。楚州刺史として李師道討伐で漣水・沭陽を破り海州を落とした。夏綏銀宥節度使、後に霊塩節度使として光禄渠を復旧し屯田を興した。
- 穆宗の代、幽・鎮の乱に際し河東節度使に抜擢された。太和初年、李同捷討伐で丌志沼の反乱を鎮めた功で涼国公に封じられた。王廷湊の乱では魏博へ出兵したが対応を誤り、史憲誠殺害後の魏州が乱れて館陶で敗れ、御史中丞温造の弾劾を受けたが罪は問われなかった。
- 邠寧・武寧・鳳翔・陳許・河中晋絳慈隰の各節度使を歴任。文宗は「兵を授けても疑わず、閑職に退いても怨まない者は聴だけだ」と評した。61歳で薨去、司徒を贈られた。政は苛細で厳しく取り立てたが、「家名は人の目にある、いつも豊かさを示さねば忠功を疑われる」と語った。
聽子 琢
- 李琢は家格により義昌・平盧・鎮海の三節度使を歴任したが顕著な功はなかった。広明年間、沙陀討伐の宿将として招討・都統・行営節度使を拝命したが、河陽三城に転じた際に逗留の罪で刺史に降格された。
甥 王佖
- 王佖は李晟の甥で武勇に優れた。光泰門の戦いで李演と激戦し、晟の下で神策将となった。吐蕃討伐でも功があったが、晟の失脚後は用いられず、左衛上将軍から朔方・霊塩節度使に任じられた。吐蕃が河曲で烏蘭橋を築こうとした際、賄賂を受けて工事を黙認し、以後吐蕃の侵入を招いたとして非難された。統治は猜疑深く人を多く殺したため京師に召還された。
贊
- 李晟が東渭橋に布陣した頃、硃泚が京師を奪い、李懐光が咸陽で反乱し、河北三鎮が互いに王を称し、李納が河南で猛威を振るい、李希烈が鄭・汳で乱を起こすという未曾有の危機であった。晟は積み重ねた財も食糧もない孤軍でこれらに立ち向かい、忠義の心で豪傑たちを死をも厭わせず働かせた。長安を奪還してなお民に気づかれなかったほどの統率は、三代の輔佐にも劣らぬ仁義の将であったといえる。しかし功が社稷を救ってなお凡庸な主の信を得られず、兵権を奪われたのは哀しいことである。とはいえ天下に並ぶ功を立てた者は、退いて禍を免れることこそ肝要である。四子がそれぞれ父の労苦を継いだのは、その報いというべきであろう。