新唐書卷一百五十三 列傳第七十八 顏真卿

秘書監顔師古の五世の従孫、字は清臣。安禄山の乱に際し平原太守として河北義軍の盟主となり抗戦した忠臣。粛宗・代宗朝でも礼制の是正や宦官・権臣批判で度々左遷されたが節を曲げなかった。晩年、宰相盧杞の策謀で李希烈への宣諭使として送られ、拘禁・脅迫にも屈せず、興元年間、絞殺された。享年76。天下は「魯公」と呼んで敬った。書も名高く、諡は文忠。

年表(5件)

出自と初期の官歴

  • 顔真卿、字は清臣。秘書監顔師古の5世の従孫。幼くして父を失い、母殷氏に厳しく育てられた。学問に励み、開元中に進士に挙げられ、さらに制科にも及第した。醴泉尉、監察御史を歴任し、河・隴への出使では冤獄を晴らして雨を降らせ「御史雨」と呼ばれた。朔方令鄭延祚が母の死を30年も葬らなかった件を弾劾し、終身不叙用の処分を得た。
  • 御史吉温が私怨から中丞宋渾を貶した際、これを諫めて宰相楊国忠の不興を買い、東都採訪判官に出され、さらに平原太守に左遷された。

安史の乱と河北義軍の主導

  • 安禄山の謀反の兆しを見た真卿は、密かに城壁を修築し兵糧を蓄えつつ、賓客と酒宴を開いて祿山の疑いをかわした。祿山反乱後、河北諸郡が次々陥落する中で平原城だけが守りを固めていたため、玄宗は「河北二十四郡に忠臣一人もいないのか」と嘆いたが、真卿の使者到着で喜んだ。
  • 真卿は静塞兵を核に募兵し1万の兵を編成、刁万歳・徐浩ら諸将に分統させた。饒陽・済南・清河・景城・鄴郡の太守らが次々帰順し、賀蘭進明も援軍を送った。洛陽陥落後、賊将段子光が李憕・盧奕・蒋清の首級を送り届けて河北を動揺させようとすると、真卿はそれが偽物であると偽って将士を動揺させず、密かに丁重に葬った。
  • 従兄の顔杲卿が常山太守として賊将李欽湊らを斬り土門を清めると、河北17郡が真卿を盟主に推し、20万の兵で燕・趙を分断した。戸部侍郎を拝命し、李光弼を助けて討賊にあたった。清河太守の使者李崿の献策により清河の兵糧を得て袁知泰軍を破るなど、河北の抗戦を主導した。
  • 史思明が饒陽を包囲すると、賀蘭進明に招討使の地位を譲ったが、進明は信都で敗れた。平盧の劉正臣に軍資を送り味方につなぎ止めるなど、財政・兵站にも尽力した。
  • 至徳元載(756年)10月、賊の勢いに抗しきれず平原を放棄し、鳳翔の粛宗のもとへ馳せ参じた。憲部尚書・御史大夫を拝命。

粛宗・代宗朝での直言

  • 粛宗のもとでも法規に厳格で、広平王が長安を平定して凱旋した際、王府都虞候管崇嗣が先んじて馬に乗ったのを弾劾した。両京回復後、宗廟祭祀での祝文に「嗣皇帝」と署されたことを問題視し、太廟が賊に焼かれた際は簡素な壇での祭祀を提案するなど礼制の是正に努めたが、しばしば宰相の不興を買い、馮翊太守・蒲州刺史などへ左遷された。御史唐旻の誣告で饒州刺史にも落とされた。
  • 乾元2年(759年)、浙西節度使。劉展の反乱に備えて戦備を整えたが、都統李峘に生事と非難され刑部侍郎に召還された。李輔国が上皇を西宮へ移した際、百官を率いて安否を問うたことで輔国の怒りを買い、蓬州長史に左遷。代宗即位後、吏部侍郎などを歴任した。
  • 宰相元載の専横に抗議して朔方行営宣慰使に転じられたが、元載が官員の奏事を宰相経由に限ろうとした際、真卿は「郎官・御史は天子の耳目であり、これを塞げば林甫・国忠の再来を招く」と激しく上疏した。この諫言により峡州別駕、さらに吉州司馬に貶された。元載誅殺後、楊綰の推挙で刑部尚書、吏部に進んだ。

李希烈への使者と最期

  • 宰相楊炎・盧杞に疎まれ、太子太師など閑職に置かれた。かつて盧杞の父盧奕が安禄山軍に殺された際、真卿がその首級の血を自ら舌で拭った故事を持ち出して盧杞に恨まれた。
  • 李希烈が汝州を陥落させると、盧杞は真卿を宣諭の使者として送ることを画策した。李勉らの反対にもかかわらず、真卿は「君命は避けられない」と赴いた。李希烈の養子らに脅されても顔色を変えず、上疏で自らを弁明するよう強要されても拒み続けた。李元平の説得も、硃滔・王武俊ら反乱諸将の推戴の誘いも、顔常山(従兄顔杲卿)の忠義を引いて拒絶した。
  • 李希烈は真卿を拘禁し、坑を掘って生き埋めにすると脅したが、真卿は「死生は定まっている、何を多く語ることがあろうか」と動じなかった。周曾らの内応計画が露見して蔡州へ移送された後も、自ら遺表・墓誌・祭文を用意して死を覚悟した。
  • 興元年間、官軍の勢いが盛り返すと、李希烈は薪を積んで焚死を脅したが真卿は自ら火に向かい、逆に止められた。最終的に希烈の弟希倩が硃泚の乱に連座して誅されたことに怒った希烈は、閹奴を送って真卿を絞殺させた。享年76。淮西・蔡州平定後、子の頵・碩が遺骸を送り届け、帝は5日間朝を廃し、司徒・諡文忠を贈った。

人物

  • 真卿は朝廷にあって公正厳格で、公の言と正しい道以外は心に萌さなかった。天下は姓名でなく「魯公」と呼んで敬った。李正己・田神功・董秦・侯希逸・王玄志らはみな真卿が招いて起用した人物である。楷書・草書に優れ、その筆力は世に重んじられた。貞元6年(790年)、赦により子の頵に五品正員官が授けられ、開成初年には曾孫の弘式が同州参軍に任じられた。

史論

  • 柳宗元は「世に段太尉を武人とみなす者が多いが、実は物腰柔らかく低頭して歩き、言葉も控えめで、儒者のようであった。しかし不当なことには必ず志を貫いた」と評した。孔子の「仁者は必ず勇あり」の言に通じるものである。
  • 安禄山の反乱に対し、顔真卿はまとまりのない義勇軍で立ち向かい、功業こそ成らなかったが志は称えるに足る。晩年は奸臣に排斥されて賊の手にかかったが、その毅然たる気概は挫けることがなく、忠と呼ぶにふさわしい。両者とも当時は必ずしも君主の信頼を得ていたわけではないが、いざという大事に臨んで二心なく貫いた点は、己を正すことをもって忠義とした証である。千五百年後も、その烈々たる言葉は厳霜烈日のごとく畏敬すべきものである。