新唐書卷一百五十 列傳第七十五 李揆

生涯

  • 李揆は字を端卿といい、隴西の出で名族。祖父李玄道は文学館学士、父李成裕は秘書監。李揆は聡敏で文章に優れ、開元末に進士及第、陳留尉から闕下に献書して中書に召され、右拾遺、起居郎(宗子の表疏を掌る)、考功郎中知制誥を経て玄宗の蜀行幸に従い中書舎人。
  • 乾元2年(759年)、上皇后の号「翊聖」提案に対し、韋后の先例(乱政の后が翊聖と称した)を挙げて諫め撤回させた。粛宗の後継問題では代宗(当時の成王)擁立を「社稷の福」と賀し帝の決断を後押しした。
  • 礼部侍郎として、実力より暗記に頼る科挙の風潮を批判し公開の場で儒者らに実力主義を説き人望を得た。中書侍郎・同中書門下平章事、修国史、姑臧県伯。容姿・弁舌に優れ帝から「門地・人物・文学すべて当世第一」と称され「三絶」と評された。李輔国の羽林騎増員要求に対し「南北衙の相互牽制の意義」を説いて阻止した。
  • 昇進に熱心で名を求める傾向があり、兄李楷が停滞する中、旧宰相呂諲の善政を妬んで讒言し左遷させたことが露見して袁州長史に左遷。以後歙州刺史などを経て16年流転。
  • 元載への評価を巡る辛辣な発言(「元載は地位が低く貧しい家柄」との侮蔑)が元載の恨みを買い、秘書監として長期の在野生活を強いられた。元載誅殺後、睦州刺史に復帰、国子祭酒・礼部尚書。
  • 徳宗の山南幸に際し、盧杞に忌まれ入蕃会盟使に任じられ尚書左僕射。老齢を理由に固辞したが「和戎の使は朝廷の事情に通じた者でなければならぬ、あなたでなければ」と盧杞に説得され赴いた。吐蕃で「唐に第一の人李揆あり」と問われ、抑留を恐れ別人と偽った逸話が伝わる。帰途、鳳州で74歳で死去、司空追贈、諡は恭。