生涯
- 李巽は字を令叔といい、趙州贊皇の人。明経で華州参軍事、抜萃挙で鄠尉。常州刺史から給事中、湖南観察使、貞元5年(789年)江西観察使。厳格な法治で下を治めた。順宗代、兵部侍郎、杜佑の推挙で塩鉄転運副使、のち代行。劉晏以来低迷していた財政収入を1年で最高年並みに、翌年はそれを超え、さらに翌年180万緡増収した。吏部尚書に累進。
- 吏事に厳格で、過失には容赦なく部下を震え上がらせた。程異を王叔文事件に連座しながらも特別に推挙した。元和4年(809年)、病重い中でも執務の話ばかりし63歳で死去、尚書右僕射追贈。
- 猜疑心が強く恨みを買いやすい性格で、常州刺史時代に竇參に急がされた恨みから、竇參が郴州に左遷された際、湖南観察使だった李巽は劉士寧からの贈り物を口実に竇參を「藩鎮との交通」として弾劾し、徳宗を怒らせ竇參を死に至らしめたとされる。
史論
- 賛にいう。人が生きる根本は食と貨のみである。取るべき道を知れば人は怨まず、与えるべき道を知れば人は乏しくならない。道をもってこれを治めれば王となり、権をもってこれを用いれば覇となる、古今変わらぬ理である。劉晏は平準法により山海の利を握り、商人を制して万物の価格を操り、常に天下の余剰を掌握して軍興を助けた。長年の兵乱にもかかわらず、民から過重に取らずして財政を賄えたのは、唐の中興が振るった一因であり、劉晏の功があったといえよう、取ると与えるの理を知る者と言うべきである。劉晏の推挙で登用された者たちは皆その才で名を上げ、その法を継いで国を富ませたという。