新唐書卷一百四十九 列傳第七十四 第五琦

生涯

  • 第五琦は字を禹珪といい、京兆長安の人。吏才で仕え富国強兵論を語った。韋堅に仕え、その失脚後は不遇であったが北海太守賀蘭進明に才を認められ録事参軍事に登用された。安禄山の乱で河間・信都陥落の危機に、財を投じて勇士を募る計を進言し、失地を回復させた。
  • 粛宗に「兵の強弱は賦にあり、賦の源は江淮にある」と説き、監察御史・句当江淮租庸使を拝命。度支・塩鉄鋳銭使等を歴任(塩鉄使の名は第五琦に始まる)。軍興の中でも増税せず財政を賄い戸部侍郎・判度支に累進、乾元2年(759年)同中書門下平章事。
  • 乾元重宝銭・重輪銭の鋳造(一銭を十文・五十文に相当させる貨幣改革)を行ったが物価騰貴を招き議論を呼び忠州長史に左遷。金の収受を告発された際「宰相たる身が自ら金を持ち歩くはずがない、証拠あらば有司に委ねよ」と反論するも夷州へ流された。
  • 宝応初、朗州刺史として治績を上げ太子賓客。吐蕃の長安侵攻に際し郭子儀の下で糧料使・関内元帥副使、京兆尹、度支・鋳銭・塩鉄・転運・常平使を兼ね扶風郡公。魚朝恩との親交で括州刺史、饒・湖二州を歴任、太子賓客・東都留守。徳宗が再登用しようとしたが、召される前に71歳で死去、太子少保追贈。子の第五峰と嫁の鄭氏は孝行で表門を賜った。