新唐書卷一百四十八 列傳第七十三 田弘正

生涯

  • 田弘正は字を安道といい、父田廷玠は儒学を好み軍務を嫌った人物で田承嗣とは従兄弟の関係にあった。滄州刺史として李寶臣・朱滔の包囲に耐え、田承嗣の磁・相占領にも与しなかった。田悦の代に忌まれ節度副使を経て屈辱の中で憤死した。
  • 田弘正は幼くして兵法・騎射に通じ、田承嗣に「わが宗を興す者」と期待され「興」と名付けられた。田季安の代、副節度使として季安の放埓を諫めたが疎まれ左遷寸前で仮病により免れた。
  • 季安死後、子田懐諫の擁立に伴い、家奴蔣士則の専横に軍が反発、田弘正が推されて主帥となり、士則らを誅殺。魏・博・相・衛・貝・澶の版籍を朝廷に献上し、承嗣以来の慣行(人質・往来禁止など)を廃し、僭侈な調度も撤去した。憲宗はその誠意を高く評価し、検校工部尚書・魏博節度使に任じ、裴度を宣慰使として派遣、六州の民に一年の免税、囚人の赦免などを行った。田弘正は感激して忠誠を誓う上奏文を送り、改名を賜った(弘正)。
  • 淮西討伐では子の田布に三千の兵を率いさせ功を上げ、李師道の牽制にも貢献。王承宗討伐では南宮で大破し帰順させた。李師道討伐では劉悟の内応を得て師道を斬らせ十二州を得た。功により検校司徒・同中書門下平章事、実封戸三百、兄田融を太子賓客とした。帝の慰留を受け入れ任地に戻り、子姓を朝廷に出仕させ栄達させた。
  • 穆宗代、成德軍節度使として鎮州に転じたが、鎮人の反発を懸念し魏兵二千を自衛に伴ったことが軍の不満を招き、長慶元年(821年)、魏兵を帰したその月に軍乱が発生、田弘正は家族将吏三百余人と共に殺害された、58歳。太尉追贈、諡は忠愍。
  • 兄田融に孝を尽くし、季安の猜疑時代を切り抜けた逸話がある。忠孝を重んじ功名を好み、蔵書一万余巻を有し『沂公史例』が世に伝わった。判官劉茂復のみが乱を免れ、部下は「この人は忠実な議論をした者、手をかける者は共に討つ」と誓い合った。

田布(田弘正の子)――生涯

  • 田布は字を敦礼といい、幼くして機知に富んだ。父の危機を父に密告し帰朝を勧めた功で信頼を得た。魏帰順後、親兵を統率、蔡州討伐で十八戦の功を上げ御史中丞。裴度の危機を伏兵で救った。蔡平定後、左金吾衛将軍。諫官を庇う発言をした逸話がある。父の成德転任に伴い河陽節度使、涇原に転じた。
  • 田弘正が殺害された後、魏博節度使李愬の病を機に、魏の人心を得ている田布が後任に選ばれた。号泣しつつ拝命し喪服のまま任地に入り、将士を厚遇し私財を投じ軍資を賄った。牙将史憲誠を信頼して精鋭を委ねたが、朱克融・王廷湊との連携を図る河朔三鎮の情勢の中、憲誠に異心があり、大雪と兵糧不足による軍の不満(「六州の膏血を鎮・冀との戦いに費やすのか」との怨嗟)から兵が離反、憲誠に帰す事態となった。
  • 田布は自らの無力を悟り、憲宗への上表文を残し「臣は功なく死をもって忠を示す」と述べて自刃、38歳。尚書右僕射・諡孝を追贈。子の田鐬は宣宗代、私鎧の不正取引で死罪に問われたが、宰相崔鉉の「父布の節死」を理由とする上奏で州司馬に減刑された。

田群(田弘正の子)――生涯

  • 田布の弟田群は会昌中、蔡州刺史として贓罪により死罪となったが、兄田肇(弘正の子?)がこれを聞いて食を断って死去、宰相李德裕の先例(漢代の兄弟連座免除)に基づき武宗は減刑を命じた。

田牟(田弘正の子)――生涯

  • 弟の田牟は寛厚で吏治に明るく、神策大将軍から鄜坊・天平・武寧・霊武の各節度使を歴任、検校尚書左僕射に至り没した。子らも各地で功を上げ忠義で称された。