新唐書卷一百四十八 列傳第七十三 張孝忠

奚族出身、代々乙失活酋長の家柄。安禄山配下の将から史思明軍を経て唐に帰順し、成德軍節度使、のち義武軍節度使となった。朱滔・王武俊の反乱では易・定の防備を固めて忠節を貫き、李晟と姻戚関係を結んだ。清廉・質素な生活で知られた。62歳で死去、上谷郡王を追封され諡は貞武。子の張茂昭・張茂宗・張茂和もそれぞれ朝廷に仕えた。

年表(5件)
  • 元和中張茂宗、閑廐使として旧隴右監牧地の賦税を強引に徴収し民の訴えを招く
  • 長慶初御史の再調査により民に田が返される
  • 元和末陳楚、義武節度使渾鎬の喪師後の混乱を収拾するため節度使として赴任する
  • 貞元2年786年河北飢饉に際し自ら質素な生活を通し賢将と称される
  • 元和2年807年張茂昭、入朝を五度願い許される

生涯

  • 張孝忠は字を孝忠、本は奚族、代々乙失活酋長の家。父張謐は開元中に帰順し鴻臚卿。孝忠は初め阿労と名乗り、勇名で王沒諾幹(王武俊)と並び称された。天宝末、善射で仗内供奉、安禄山の偏将として九姓突厥を破り、河洛陥落後は史思明軍の前鋒として活動したが、史朝義敗北後に帰順、左領軍将軍として李寶臣に属した。
  • 田承嗣の冀州侵攻を軍容の厳整さで退けた逸話がある。李寶臣が朱滔と戦う際に易州刺史として幽州に当たった。太子賓客・符陽郡王。李寶臣が晩年に将を粛清し孝忠を召そうとしたが応じず、「反しもしないが行きもしない」との姿勢を貫いた。
  • 李寶臣死後、子の李惟嶽の擅立に朱滔が討伐の詔を得ると、判官蔡雄の説得を受けて朱滔に帰順、成德軍節度使に抜擢された。惟嶽討伐後、朱滔が恒州を襲おうとした際、孝忠は「敵は破れたが恒州には宿将が多い」として深追いせず堅壁の計を取り、朱滔もこれに従った。王武俊が惟嶽を斬って献じ、定州刺史楊政義の帰順により義武軍(易・定二州)が新設され、孝忠は節度観察使となった。
  • 朱滔・王武俊の反乱時には勧誘を拒み、易・定の防備を固めて朱滔の攻撃を耐え抜き(李晟・竇文場の援軍もあり)、李晟と姻戚関係を結んだ。徳宗の奉天出奔に六百の兵を援助、興元初、同中書門下平章事を加えられた。
  • 貞元2年(786年)の河北飢饉では自ら質素な生活を通し賢将と称された。子の張茂宗が義章公主を尚した際も謙譲を守った。貞元5年(789年)尉州襲撃の擅興で司空を削られたが翌年復した。62歳で死去、上谷郡王を追封され太師を追贈、諡は貞武。子は張茂昭・張茂宗・張茂和。

張茂宗(張孝忠の子)――生涯

  • 張茂宗は光禄少卿・左衛将軍を歴任、元和中、閑廐使として旧隴右監牧地の賦税を強引に徴収し民の訴えを招いた。侍御史孫革の調査で不当と判定されたが茂宗は反論して覆させ、のち長慶初、御史の再調査で結局民に田が返された。寶暦初、兗海節度使、左龍武統軍で終わった。

張茂和(張孝忠の子)――生涯

  • 張茂和は左武衛将軍。裴度の蔡州討伐で都押衙となったが、功を焦り度に無謀な進言をして拒否された。憲宗は「その家の忠孝を思い遠く配した」として庇護した。のち諸衛将軍で終わった。

張茂昭(張孝忠の子)――生涯

  • 張茂昭は本名升雲、徳宗より改名を賜った。字は豐明。父の代に検校工部尚書。父の死後、留後を経て延德郡王、節度使。弟の張昇璘が王武俊を侮辱し武俊が義豐・安喜・無極を攻めたが茂昭が謝罪し収束させた。入朝の際、河朔情勢を献策し帝の信任を得て子の克礼が晉康郡主を尚した。
  • 順宗代、同中書門下平章事。帝から下賜された女楽を「先例に照らし過分」として辞退した逸話がある。憲宗の元和2年(807年)、入朝を五度願い許された。王承宗討伐に際し廩廄を整え西軍を支援、木刀溝の戦いで自ら先鋒として大破に貢献。功により検校太尉・太子太傅を加えられたが、一族を挙げて朝廷に帰参することを願い出て許された。妻子を先に発たせ「後世に俗に染まらせぬため」と戒めた。河中晉絳慈隰節度使として京師に至り厚遇された。翌年、頭部の腫瘍で50歳で死去、太師を追贈、諡は献武。子らはいずれも要職に登用された。

張克勤(張茂昭の末子)――生涯

  • 末子の張克勤は開成中、左武衛大将軍。子への五品官下賜を子の幼さから甥に譲ろうとしたが、吏部員外郎裴夷直に「私恩に法を曲げるもの」と弾劾され却下、この事例が制度に明記された。
附 裴夷直――生涯
  • 裴夷直は字を礼卿といい、進士に及第、右拾遺から中書舎人。武宗代、冊命への署名を拒み杭州刺史・州司戸参軍に左遷。宣宗代に内地に戻り江・華等州刺史、散騎常侍で終わった。

陳楚(張茂昭の甥)――生涯

  • 陳楚は字を材卿といい、定州の人、張茂昭の甥。武幹に優れ牙将として従軍。茂昭の入朝で諸衛大将軍・普寧郡王。元和末、義武節度使渾鎬の喪師後の混乱を収拾するため節度使として赴任、雪中の強行入城で軍心を安定させた。河陽三城、左羽林統軍、司空検校を経て61歳で死去、司空追贈。子の陳君奕も鳳翔節度使に至った。