新唐書卷一百四十八 列傳第七十三 令狐彰

生涯

  • 令狐彰は字を伯陽といい、京兆富平の人、その先は敦煌からの移住者。父令狐濞は范陽の尉として通民の女と関係し彰を生んだ。志気があり書伝の大義に通じ、弓術に優れた。安禄山に従い左衛郎将、両京陥落後に河朔へ逃れた。史思明の博・滑二州刺史として滑台に駐屯するも、宦官楊万定を通じて粛宗に密かに帰順を表明、滑・魏博節度使を拝命した。
  • 河朔平定後、御史大夫兼務、霍国公、検校尚書右僕射。荒廃した滑州を厳格な法治と農耕振興で立て直し、防秋の兵を無償で自弁させるなど質実な統治を行ったが、猜疑心が強く逆らう者を容赦なく処断した(潁州刺史李岵の誅殺事件など)。魚朝恩と不和で入朝を憚った。
  • 母の喪に際し失明し病重い中、子の建・通・運を東都に帰し、軍府の兵仗財用の簿冊を上呈、劉晏・李勉を後任に推挙して没した。代宗はその門閭を褒め太傅を追贈した。
  • 子の令狐建は右龍武軍使を経て徳宗の奉天出奔に従い左神武軍大将軍。妻(成德節度使李寶臣の娘)を巡る不祥事で赦されるも専殺の罪で施州別駕に左遷され没し、揚州大都督を追贈された。憲宗代、宰相李吉甫の推挙で末子の令狐通が贊善大夫に任じられたが、蔡州討伐で虚偽の戦果報告を重ね、李吉甫の死後に昭州司戸参軍に左遷。子の令狐運は東都留守将として杜亜に讒言され流刑となり死去。